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 十時を廻る頃、俺はやっと自宅に戻ってきた。1Kの狭いアパート。ここが、俺の城と言うわけだ。

「ただいま」

 そう言いながら電気を点ける。返事なんてあるはずも無い。半日以上空けていた部屋の中は冷えきっていた。何はともあれ風呂に入ることにした。

 鞄を置いて着替えを用意し、風呂の湯を溜め始める。溜まるまでに十分弱。この近代化の世の中にあって、追い炊きすら出来ない貧弱な設備の風呂だが、それを言い始めたら贅沢と言うものだ。

 読みきれなかった文庫本を鞄の中から引っ張り出す。風呂のお供に決定。長風呂は一人暮らしに許された数少ない贅沢の一つだ。これを満喫することはまさに至福のひと時と言って過言では無い。風呂で読むと本が皺になると嫌う人がいるけど、俺はあんまり気にしない。本を読むのは好きだけど、本その物の外観とかにはあんまり興味が湧かない。読めればいいとすら思う。



 浴槽に体を浸すと、冷えた指先にゆっくりと血液が流れていくのが分かる。それがたまらなく幸せだった。

 限界まで体を湯に浸しながら、読書を楽しんでいると、スマホの着信音が風呂場の外から流れてきた。

(万死に値する愚行だよな)

 そう思いつつ放置。暫くすると鳴り止む。

(うん、それで良い)

 しかし、五分と経たずに再び流れ始める。後十ページぐらいで読み終わるので、何とか待って頂きたいと思いつつ、二回目も放置。そして三回目。なにやら緊急の要件なのだろうか。俺は諦めることにした。読了までは七ページ。

 名残を惜しみつつ風呂場から出たところで電話は切れた。

「間が悪い」

 呟きつつ、体を拭いて着替えを済ませてから洗面所を出る。

 乾ききらない髪を拭きながら、スマホを見ると翔からだった。

(ああ、そういえばまだ連絡してなかったな)


「もしもし」

『あ、大和!? なんで連絡をくれないのさ』

「悪いね、さっき帰ってきたところなんだよ」

 もちろん嘘だが。正直に風呂に入っていたとか言うと色々と面倒くさそうだ。

『まあ、いいけど。で、どうだった?』

「ああ、構わないってさ」

 俺がそう伝えると、電話の向こうから安堵のため息が聞こえてきた。

『あー、良かった。助かるよ』

「で、何時にどこだ?」

『えとね、駅前に六時で』

「駅前に六時な。了解」

 その後、どうでもいい話で少し盛り上がって、電話を切ったら十一時を廻っていた。あいつは話しが上手いせいか、喋りだすと俺も止まらなくなる。

(別に楽しいからいいんだけど、この電話、俺からかけたよなぁ)

 軽く反省しつつ、スマホを充電器に戻し、読み終わりかけの小説を読んでしまう事にした。




希乃咲穏仙 ( 2021/04/28(水) 23:09 )