ずるい女
02
 それは日曜日の朝。突然、母から聞かされた言葉。


「涼斗くんちの引っ越し。夏休みに入ってすぐらしいね」


 私は冷蔵庫を開けたまま、母親の顔を見る。


「なにそれ? 引っ越すなんて聞いてないよ?」

「やだ、飛鳥。あんた、知らなかったの?」


(知らない。知らない。そんなの聞いてない)


「政美さんの実家を二世帯にしたんだって。涼斗くんの高校はちょっと遠くなっちゃうけど、あと半年で卒業だしね……」


 その後の母の言葉はよく聞こえなかった。気づくと私は部屋を飛び出して、隣の家のドアを叩いていた。



「引っ越すってほんと?」


 ジャージ姿で少し寝ぐせのついた髪の涼斗が私の前に立っている。


「そうだよ」


 涼斗は表情を変えることなく簡単に答える。


「どうして教えてくれなかったの?」

「おばさんから聞いたなら、それでいいじゃん」

「なんで? 昨日も会ったのに、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」


 そこまで言って口を閉じる。

 誰から聞こうが、いつ聞こうが、引っ越すことは決まっている。

 それは変えることのできない事実。

 私たちはもう同じ月を見れなくなる。


「で、言いたいことはそれだけ?」


 俯く私に冷たい声が降ってくる。


「用がないならもう帰ってくんない? 勉強中なんだわ、俺」


 迷惑そうに言った涼斗は無慈悲にドアを閉めた。



 引っ越しの準備は着々と進めている。私はあれから、涼斗に会っていない。


「飛鳥ちゃん」


 団地のそばで車が止まる。運転席の和毅が言う。


「わかってるよね? 僕の気持ち」


 フロントガラスの向こうに見える不格好に欠けた月。その姿が和毅の顔で隠されていく。


「いい加減、焦らすのやめてくれよ」


 そう呟いた和毅の唇が私の唇に重なる。


「ごめんなさい……」


 涙と共にあふれた言葉は誰に向けてのものなんだろうか。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 覆いかぶさる和毅の体を押し退けて、私は車から飛び降りた。



 転がるように走って、道路を渡った。

 私の名前を呼ぶ声が聞こえて、振り向いたけど、追いかけては来ない。

 団地の敷地内に駆け込んで前を向いた瞬間、暗闇の中で誰かにぶつかった。


「涼斗?」


 怒ったような表情の涼斗の顔。私は涼斗のシャツに触れた手を離し、さりげなく涙をぬぐった。


「あと一分待っても出て来なかったら、車のドア、蹴飛ばしてやろうかと思った」

「え……」

「ま、俺にそんなことする権利ないもんな」


 いつものリュックを背負った涼斗が背を向けた。


「待ってよ……」


 黙って階段を昇る涼斗の背中に声をかける。


「待ってって、涼斗。私……」


 階段の踊り場で涼斗の腕に手を伸ばした。

 だけど、それは私の知らない男の人の腕。

 小さくて、いつも私が引いていた手とは、もう違った。

 思わず息をのんだ私の耳に涼斗の声が聞こえた。



「なんで、俺とキスなんてしたの?」


 黙って顔を上げる。見慣れた涼斗の顔が月明かりにぼんやりとにじむ。


「俺のことなんて、好きでもないくせにさ」


(違う。違う。私はずっと涼斗のことが……)


――涼斗に私よりしっくりくる子ができたら、その子と付き合えばいいし――


 いつか言った言葉が頭をよぎる。

 涼斗の制服の白シャツ。リュックに入っている、教科書や参考書。ポケットの中の自転車の鍵。


 それは私が決して戻ることのできない世界。

 大人ぶってみればみるほど、私は涼斗の隣には似合わない人間になっていく。

 それが、すごく、悲しくて、怖い。



 私の手がするりと離れた。


「ごめんね」


 予備校帰りに自転車置き場で、もう私のことは待たなくていいから。

 お隣に住んでいた3つ上の私のことなんて、忘れちゃっていいから。

 涼斗には、涼斗に一番合った人を探して欲しい。

 言葉の代わりに涙がこぼれる。ぽたぽたと私の足元にそれは落ちる。

 踊り場に吹き抜ける夏の風。あと何日で夏休みが始まるのだろう。

 夏休みになったら、私たちはもうお別れ。

 お隣同士でなくなれば、私たちをつなぐものは、何もない。



 涼斗の指先が私の濡れた頬に触れた。そのまま促されるように、泣きながら顔を上げる。

 ぼんやりにじんだ涼斗の顔が、薄暗い踊り場の灯りをさえぎって震える私の唇に、涼斗が唇を押し当てた。


「……バイバイ」


 消えてしまいそうな声を残し、涼斗が視界から消えていく。

 私はその場に立ち尽くしたまま、漏れそうになる声を必死に抑える。

 その日、部屋に帰っても、私は窓から月を眺めることはできなかった。




希乃咲穏仙 ( 2022/11/06(日) 23:38 )