03
「お母さん。今日はいい天気だよ。お散歩でもしてみない?」
窓から射し込む春の陽射し。ベッドの上の母が微笑む。
「そうね。少し外へ出てみようかしら。桜も咲いてるみたいだし」
母の声に胸の奥をかすかな痛みが走る。
テレビの画面には桜の満開を知らせるアナウンサーが満面の笑みで映っていた。
母と一緒に近所を歩く。その腕を支えて、ゆっくりと。
二年前に大病を患った母は今も自宅でリハビリを続けている。
「公園の桜が満開ね」
母が空を仰ぐように咲き乱れる桜の花を見つめる。
やわらかく吹く春の風。ふわりと舞う淡い色の花びら。誰もがその木を見上げ、笑顔になっているのに、私の心はくすぶり続ける。
「ごめんね……愛萌」
公園の桜を見上げたまま、母が突然に呟く。
「私の病気のせいで、仕事を辞めさせちゃって……ほんとにごめんね?」
「なに言ってるの? お母さん」
母が倒れた後、私は母の看病をするため、去年の年度末で高校教師を辞めた。
正直、迷ったことは確かだ。仕事はちょうどやりがいが出てきた頃で、寂しがってくれる生徒もいてくれた。だけどそれは私が決めたこと。
「仕事はまたいつだって出来るよ。今はお母さんのそばにいたいの。早く元気になってね。そうしたらまた、私も学校に戻るから」
「愛萌……」
母が目を潤ませながら私に微笑む。
「でもね、あんたはすぐ我慢する子だから。たまには自分の気持ちに素直になってもいいのよ?」
(自分の気持ちに素直に……?)
ぼんやりと立ちつくす私の横を高校の制服を着た生徒と母親が通り過ぎた。
(ああ、そうか。今日は入学式だったんだ)
晴れやかな顔つきの親子を見送りながら、教師として過ごした学校生活を思い出す。
「そろそろ帰りましょう。少し疲れたわ」
「うん……」
母と一緒に歩き始める。はらりと肩に落ちる一枚の花びら。
忘れよう忘れようと思っていた声が風に乗って聞こえてくる。
――四年後。桜が満開になったら……あの木の下で待ってる――
(まさか。ありえない。そんなことありえないよ)
「愛萌? どうしたの?」
母の心配そうな声で気がついた。
私は桜の木の下で立ち止まり、涙をこぼしていた。
「お母さん、私……忘れ物を届けに行かなきゃ……」
家に母を送ると、私はもう一度外へ駆け出した。
何人かの学生たちとすれ違いながら、息を切らして走る。
(なにを必死になっているんだろう。いい歳して……馬鹿みたい)
やがて見えてきた見慣れた校門。私は迷わずその中へ駆け込む。
校舎から出てくる人影はなく、グラウンドでも部活動をやっている気配はない。
(いるわけない。いるわけないよ。誰もそんなところに――)
空からふわりと花びらが舞う。目の前に見える満開の桜の木。あの教室の窓から見た桜の木。その木の下に立つ、スーツ姿の男のひと。
「あっ……」
勢い余って転びそうになった私の体が大きな手で受け止められる。
「大丈夫?」
(聞き覚えのある声。ううん、毎日たしかに聞いていた声)
「大丈夫? 愛萌先生」
顔を上げると懐かしい笑顔が私の前に広がった。
「忘れ物を……届けに……」
息を切らしながら体を離し、卒業証書の筒を無理やり押し付ける。
「それにもう……私は先生じゃないから……」
私から筒を受け取った彼が少し照れくさそうに言う。
「俺は先生になったよ。この学校の」
「うそ……」
「うそじゃないって」
ネクタイをゆるめながら彼は笑う。
「それに四年経っても忘れなかった」
(私も……私も忘れなかったよ)
「忘れなかったら、俺と付き合ってくれる約束だったよな?」
四年前より大人びた顔でのぞきこまれて、どうしたらいいのかわからなくなる。
「そんな約束……してないわ」
「あー、変わってねーなー。素直じゃないとこ」
むっとした顔で彼を見上げたら、彼は嬉しそうに笑った。
「付き合ってよ。愛萌ちゃん」
「無理です」
「付き合って」
「無理」
「愛萌。好きだ」
桜の花びらがはらはらと舞う。まるで私たちを祝福しているフラワーシャワーのように。
(ああ、もうだめ。もう降参だ)
必死に固めていたガードが崩れ、花びらみたいにふわりと心が軽くなる。
「……私も、好き」
幸せそうに微笑んだ不破くんが私の体をぎゅっと強く抱きしめた。
「やっと、つかまえた」
胸の中でその声を聞く。
あたたかい風と、あたたかいぬくもりに包まれて、私はそっと目を閉じた。
私たちが出会った日。私がすとんと恋に落ちてしまった彼の笑顔を思い出しながら――。