02
春。満開の桜の木。
新学期早々遅刻しそうになって、焦って登校してきた私はちょうどあの木の下でつまずいた。
「大丈夫?」
倒れそうになった私の体をとっさに受け止めてくれた男子生徒。一瞬触れた、温かいぬくもりに驚いて、私は慌てて体を離す。
そんな私を見て、目の前の生徒が口元を緩ませた。私よりずっと背が高いけど、どこか幼さの残る顔は新一年生だろうか。
「何組?」
「え?」
「俺、一年三組。あんたは?」
制服のない学校だから。小柄で童顔な私は生徒に見えたのかもしれない。これでも教員二年目なんだけどな。
「一年三組……の担任です」
は? という顔をした彼が吹き出すように笑い出した。
その顔が無邪気な子どもみたいに可愛くて。
春風の吹く木の下で私はただぼんやりと彼の顔を見ていた。
「先生? あんたが? マジ、ウケる」
「ふざけないで」
「先生、なんて名前?」
「宮田……愛萌です」
「愛萌ちゃんかー」
「そ、その呼び方……やめなさい!」
必死になればなるほど、おかしそうに彼は笑う。
そのあと桜の下で撮った集合写真では真ん中に座る私の隣でやっぱり彼が笑っている。
あれからもう、三年が経ってしまった。
「こんなに想われてるんだからさぁ。いい加減素直になりなよ」
私は窓辺を見ながら、もう一度ため息を吐く。
「不破くん」
「はい?」
かすかに聞こえる雨の音。
「あなたはまだ、狭い世界しか知らない。大学に行ったら……東京に行ったら、もっと広い世界を知ることになるの。いろんなものを見て、いろんなことを聞いて、いろんな人と出会って。そうしたらきっと、私のことなんか忘れられる」
そう。彼は四月から東京の大学生。この狭い町を出て、もっとたくさんの人と出会う。
希望に満ちた彼の未来に八歳も年上の女なんて必要ない。
「きっと素敵な彼女もできるわよ。楽しみね」
窓の外を見たまま告げる。私の教え子に。教師として。
「卒業……おめでとう」
雨の中、寒さをこらえるように立つ桜の木。あの桜が満開になるのはいつだろうか。
学校中で桜が一番綺麗に見えるのは、私たちのこの教室だった。そして次に桜を見る頃、彼はもうここにはいない。
「さよなら」
顔を上げて前を向く。目の前に立つ彼は何も言わずに俯いている。
そんな彼を追い越すようにもう一度足を踏み出した時、彼の伸ばした手が私の体を窓に押し付けた。
「ふっ……不破くん?」
名前を呼んで視線を上げたら、いつになく真剣な顔つきの彼の顔がすぐ近くに見えた。
「……忘れなかったら?」
彼の声は少し掠れていた。
「東京行っても忘れなかったら?」
「え……」
「四年経っても忘れなかったら……俺と付き合ってよ」
背中に当たるガラスが冷たい。私の脇に置かれた卒業証書を持つ彼の手が微かに震えている。
彼は私に顔を近づけ、耳元で囁くように言った。
「四年後。桜が満開になったら……あの木の下で待ってる」
カタンと机に何かが当たる音がした。教室を出て行く彼の背中。私はガラス窓に体を預けたまま、ただその姿を見送る。
四年後。あの木の下で待ってる。
ありえない。そんなの。絶対ありえない。
「あ……」
そばにあった机の上に手を伸ばす。彼の卒業証書の入った筒がそこに置かれている。
「忘れるに……決まってる」
筒を手に取り、それを胸に抱きしめた。
私の気持ちをこんなに乱して。そんな台詞を残していくなんて……ずるい。