03
「やぁ、怜奈ちゃん。久しぶりだねぇ」
車の前で少し白髪の増えたおじさんが私に笑いかける。
「もうすぐ結婚式だよね、おめでとう」
「ありがとうございます」
幸せそうな笑顔をおじさんの前で作ってみせる。
「あの、武尊は?」
「ん、ちょっと待って」
おじさんが家へ戻って、タケーって声をかけている。私はまだ少しぬくもりの残っているタッパーを胸にぎゅっと抱きしめる。
家の中から段ボール箱を抱えた武尊が出てきた。
いつものグレーのパーカーを羽織って、少し寝癖のついた頭のまま、ぶすっとした顔で車の中に荷物を押し込む。
「これ。お母さんから」
そんな武尊の背中に私は言った。
「餞別。だって」
武尊が振り返る。
手を繋いで、頭を撫でて、抱っこしてあげたあの武尊は今では見上げるほど大きくなってしまった。
「……サンキュ」
ぼそっとそれだけ呟いて、武尊がタッパーを受け取った時に指先が少しだけ触れる。
「卒業おめでとう……元気でね」
そう言って、さっきと同じように笑顔を見せる私は武尊の前で大人ぶりたいだけ。
武尊は何も言わなかった。じゃあねと私は背中を向ける。
春から大学生になる武尊。東京で一人暮らしする武尊。
きっとたくさんの人と知り合って、新しいこともいっぱい経験するんだろう。
そして、素敵な恋人ができて、もう私だけの可愛いお隣さんではなくなる。
家の門を開けて庭に入る。ドアノブに手をかけて、開こうとした時、私の背中に声がかかった。
「……ちゃん」
一瞬、聞き間違えかと思って耳を疑う。
そんなふうに名前を呼ぶことなんて、もう何年もなかった。
会えばいつも不機嫌そうな顔をして、そのくせとろけるようなキスをして、それでも私の名前なんか呼ぼうともしなかった。
「レナちゃん」
振り返ったら武尊が立っていた。いつもみたいに不貞腐れた顔つきで、私のことを見ている。
「言っとくけど、俺、彼女いるから」
私はぼんやりとその声を聞いていた。
「あんたが結婚しても、別に何も困らないし」
そして、いつの間にか持っていた一輪の花を私の胸に押し付けた。
「結婚、おめでとう」
武尊の家の庭に咲いている小さな花。
おばさんが好きだった紫色の花。
武尊が毎朝必ず、おばさんのために摘んでいた花。
武尊の背中が遠ざかって行く。
私は小さな花を握り締めたまま、その手で顔を覆った。
(どうして? どうして、涙が出るの? わからない。わからない。わからない――)
私が武尊のことを好きだったなんて、そんなこと絶対、思いたくない。
「市役所行ったあとさ、俺んち来る?」
助手席に座って、私は貴志の声を聞いていた。
「実は、もう来るって言っちゃったんだよね。うちの親が連れて来いってうるさくてさ」
ハンドルを切りながら貴志がふっと笑う。
「結婚したら、毎日顔合わせるのにな」
車が国道を左折する。市役所はもうすぐそこだ。
「どうしたの? その花」
「ああ、これ?」
貴志が私の持っている小さな花をちらりと見る。
「もらったの。結婚祝い」
「ふうん」
私は助手席の窓を開けた。少し強い風が車の中に吹き込んでくる。
その風にあおられながら、私は左手を窓の外へ出し、手のひらをぱっと開いた。
まだ春の来ない、肌寒い街へ飛んでいく紫色の花。
それはもう二度と私の手に戻ることはない。
「いいよ。届け出したら、貴志んち行こう」
ほっとしたように頷いた貴志がウインカーを出す。市役所の駐車場へ私たちの乗った車が滑り込む。
「その前に『あずまや』寄ってよ。お義母さんの好きな大福、買っていってあげたい」
「怜奈が食いたいだけじゃないのか?」
助手席から降りた私に貴志が笑いかける。私もそんな彼に笑顔を返す。
寂しいとも、嬉しいとも感じないのは、まだ実感がないだけ。
それ以外には、何もない。
そう……何も。
どちらともなく手を握り、私たちは歩き出す。
ざわめく街の中に吹く風がかすかに春の匂いを運んできた。