02
十歳年下の、お隣に住む男の子。
私がこの新興住宅地に引っ越してきて、そのすぐあとに武尊の家族が越してきた。武尊はその時はまだ、幼稚園生だった。
『レナちゃん、レナちゃん』
舌足らずな声でそう呼びながら、武尊は私の後を着いてきた。それがすごく可愛く思え、遊びに来た私の友達に自慢したりしていた。
『可愛いでしょ? 武尊っていうの。私の弟みたいなもん』
武尊が中学生になった頃、武尊のお母さんが亡くなった。癌だった。
それからは時々、うちの母親が作ったおかずを、私が武尊の家に持って行ってあげたりしてた。
日曜日には私が一人ぼっちで留守番している武尊のために、料理を作ってあげたりもした。
『おいしい?』
『ん、うまい』
背が伸びて、声変わりもして、あんまりしゃべらなくなった武尊だけど、私の作る料理にはおいしいと言って食べてくれた。
それがすごく嬉しくて、私は武尊のために、隣の家に何度も通った。
「んっ……」
気がつくと私の唇が塞がれていた。少し湿っていて、すごく柔らかい武尊の唇。
「だめだって」
私に覆いかぶさりそうな武尊の体をソファーの上に押し戻す。
「私、結婚するの」
「知ってる」
「明日、婚姻届出すんだから」
「だから?」
武尊の指が私の髪を梳く。そのまま指が耳たぶから頬に流れ、温かい唇が私の首筋に落ちる。
武尊と初めてキスをしたのはいつだっただろう。
最初に誘ったのは、どちらからだっただろう。
私には貴志がいて、武尊にも、同級生の彼女らしき女の子がいたことを知っている。
それなのに私たちはお互いを求めて、会うたびに唇を重ね合った。
「今日、卒業したよ」
耳元で聞こえる武尊の声。
「待っててくれなかったんだ」
私の体が床に沈む。少し柔らかい感触はリビングに敷かれた黄緑色のカーペット。
「待っててなんて……言わなかったじゃない……」
そう呟きながら、テーブルの下に転がっている白い物が見えた。
武尊の高校の卒業証書だ。
「言ったら……待っててくれた?」
テーブルから花束が落ちた。春色の花が、ぐしゃりと武尊の右手で押しつぶされる。
『言ったら……待っててくれた?』
答えは、きっとノーだ。
武尊のキスを受け止めながら、こんなことを考えている私はひどい女。
だけど、私には武尊との十の歳の差を埋める自信は今までなかった。
あの頃、武尊が目一杯に伸ばして繋いでいた手はもう、ほぼ零距離で指と指とが絡まり合っている。
「もう……帰るね」
乱れた髪と服を整えて立ち上がると、薄暗い部屋の向こうに武尊のお母さんの穏やかな笑顔の写真が見えた。
そして、その前にあるグラスには紫色の小さな花が飾られていた。
「怜奈は知ってた? タケちゃん、今日お引っ越しですって」
朝日が射し込むリビングで新聞を広げる私に母が言った。
「タケちゃんも大学生かぁ……あんなにちっちゃくて、可愛かった子がねぇ」
感慨深げな母の声を聞きながら、私は黙って新聞をめくる。
毎日進展のない政治の話。身近には感じられない他人事のようなニュース。
ぼんやり活字を追うだけの私の視界に母が何かを差し出した。
「これ、タケちゃんちに持って行って。お餞別」
見慣れたタッパーの中に母の手作り料理が入っている。
「タケちゃん、これ好きだから」
「自分で持って行きなよ」
「お母さんより、あんたが持って行った方がタケちゃんも喜ぶでしょう?」
母が笑いながらリビングを出て行く。
私と武尊が姉弟のように仲が良いことは、私の家族も武尊の家族も認めている。
そして、まさか会うたびにキスを交わしていたことも、ましてや昨夜のことなんて、思ってもみないだろう。
カーテンを開いて庭の向こうを見る。
同じ造りの家の前で車に荷物を詰め込んでいる、武尊のお父さんの姿が見えた。