01
「怜奈さん、お疲れさまでしたぁ」
「結婚式、楽しみにしてるねぇ」
春色の花束を抱え、同僚たちの冷やかし混じりの声に見送られ、私はオフィスを後にした。
大学を卒業してから、六年務めたこの職場とも今日でお別れ。
だけど、私には寂しい気持ちも、嬉しい気持ちも、何の感情も湧いてこなかった。
いつものようにビルを出る。
そんな私の姿を待ち構えていたかのように、軽くクラクションが響く。
道路の反対側の駐車場に貴志の乗った車が見えた。
「すっごい花束だな」
両手いっぱいの花束を見て、苦笑いする貴志。私は助手席に乗り込み、ドアを閉めた。
「隣の部署の子や、お得意さんまで駆け付けてきちゃって……早く出て行けってことかもね?」
「また、そういうひねくれたことを言う」
貴志が笑ってエンジンをかける。慣れた手つきでハンドルを切り、私たちを乗せた車は駐車場を出た。
「ほんとによかったのか?」
「なにが?」
前を見たまま貴志が呟く。
「専業主婦になること」
私はぼんやり窓の外を眺めていた。
夜景なんて言えないほどの、少しのビル明かりと車のヘッドライト。
(もうこの時間にこの道を走ることもないだろうな)
そんなことを思っても、やっぱり何の感情も浮かんでこない。
「また言ってんの? 私が決めたことなんだから、それでいいの」
「でもさ、大きい仕事もしてたろ?」
納得のいってないような表情で貴志が続ける。
「後々のことを考えると、どっちかが家にいる方がいいと思うの」
何度めかのやり取りを繰り返しながら車は夜道をひた走る。
「じゃ、明日、迎えに行くよ」
目の前の赤信号を見つめながら貴志が言った。
「一緒に市役所、行こうな」
返事をしてもしなくても、貴志は迎えにくるだろう。
そして私たちは役所に行って、一枚の用紙を提出する。
婚姻届。
そう、私は明日この人と結婚する。
「それじゃあ」
軽く言ってドアを開ける。貴志はハンドルに手をかけたまま、私のことを見ている。
「……上がってく?」
社交辞令のように聞いてみた。カーテン越しに暖かい色の灯りが我が家からもれている。まるで幸せな笑い声でも聞こえてきそうな。
「いや、いいよ。また明日来るから」
貴志が笑って答える。どちらともなく見つめ合って、軽くキスする。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。また明日な」
花束を抱えながら、貴志の車を見送った。
いつものように車が右折するのを確認して、門の扉に手をかける。
その時ふと、私は隣の家に視線を移した。
我が家と同じ造りの建売住宅。越してきたばかりの頃は、自分の家と見間違えてしまったほどのそっくりな家。
だけど、その家の灯りはぼんやりと薄暗い。私の足は自然とお隣さんへ向かっていた。
庭の小さな花壇に部屋の灯りがうっすらと映っている。
薄闇の中、ひっそりと咲く名前も知らない花。
それを横目にインターフォンを押そうとしてから、手を止める。ドアノブに手をかけると思った通り鍵は開いていた。
「こんばんは」
返事がないことを知りつつ、一応言って玄関に入る。
だらしなく脱ぎ捨てられている、見慣れた28センチのハイカットのスニーカー。
私はさりげなくその靴を揃えて、家に上がりこむ。
我が家と同じで我が家と違う床の感触。人の家の匂いがする。
ほのかに薄明りがついているのはリビング。私は真っすぐその部屋へ向かった。
家具の配置が違うだけの、我が家と同じリビングで彼はソファーに寝そべってテレビを見ていた。
「武尊」
背中に向かって名前を呼ぶ。
「ご飯、食べた?」
私の声とバラエティー番組のわざとらしい笑い声が重なる。
「……食った」
背中を向けたまま武尊が答えた。
私は足元に散らかっている雑誌や、脱ぎっぱなしの服を拾い上げながら、テーブルのコンビニ弁当の空容器を見る。
「また、こんなの食べて」
「なら、作ってよ」
「今日は無理」
弁当の残骸をシンクに置き、テーブルの上に花束を乗せた。武尊の視線がちらりと動く。
「なんだよ、それ」
「結婚祝い。いや、退職祝いかな? 今日で会社辞めたから」
「ふぅん」
どうでもいいように言って、武尊はまたテレビに視線を戻す。私はそんな武尊のそばに座って、ぼんやりと同じ画面を眺めた。
薄暗い部屋にテレビの灯りだけが眩しく光る。明るい笑い声も派手な音楽も、どれもただの作り物に思えて、私の耳を素通りするだけだ。
「今日、おじさんは?」
「夜勤」
答えながら急に起き上がった武尊はリモコンでテレビを消す。しんと静まり返った部屋の中、私は武尊の横顔を見た。