01
(あ、私と同じだ)
金曜の夜、駅前のコンビニ。
残業中、上司から理不尽に怒られた私は今にも爆発しそうな不満を抱えレジに並んでいた。
本当は弁当を買いに来たのに食べる気にならず、カゴに放り投げたのは缶チューハイ。それとお気に入りのソーダ味のアイスキャンディー。
かなり遅い時間だったけど、レジはけっこう混んでいて、ジリジリ順番を待つ間、私はふと気づいてしまった。
目の前に並んでいる人のカゴにも、私とまったく同じアイスが入っていることに。
ちらりと顔を上げると、スーツを着たサラリーマン風の男性の背中が見えた。片手には黒いビジネスバッグ、逆の手には缶ビールとアイスだけが入ったカゴ。
「あの……」
声をかけられハッとした。前に並んでいる男性が振り向いて、こっちを見ている。
「あっ、すみません」
反射的に謝ってしまった。私がじろじろのぞき見していたのが、バレたんだと思ったから。
「いや……もしかして……葵じゃない?」
「へ?」
「やっぱ原田葵だよな? 俺のこと覚えてない? 昔近所に住んでた……」
私の記憶が超高速で巻戻り。ひとりの男の子の顔が目の前にいる男性の顔と重なった。
「え、うそ……聡?」
「そ、あたり!」
聡は私の前で目を細め、昔みたいに笑った。
コンビニを出て、シャッターの閉まった商店街を市橋聡と歩く。後ろから聞こえてくるのは、小田急線の踏切の音。居酒屋の前だけはまだ明るく、会社帰りのサラリーマン達が固まって笑い合っている。
「まさか、こんなとこで会うとはね」
私は隣を歩く聡に言った。私と同じくらいだった背がぐんっと伸びて、見上げるほど高くなっている。
「だよな。小4以来だから……15年ぶり位か?」
コンビニ袋をブラブラさせながら笑う聡は仕事の関係で、先月この近所に引っ越してきたそうだ。
ぼうっと光る街灯の下、改めて聡の姿を盗み見た。ビシッとスーツを着てネクタイを締め、革靴を履いている聡を見るのなんてもちろん初めて。記憶の中の聡は外で遊びまわって泥だらけになった服しか着ていない。
「さっきからずっと気になってたんだよ。どっかで見た人いるなぁって。まさか葵とは思わなかったけどさ」
「私も気になってた。私と同じアイス買ってるなぁって」
聡が私の隣で声を立てて笑う。春の終わりの夜風が肩まで伸びた私の髪をさらりと揺らした。
「なんか変わったよな、お前。スカートなんか履いたことなかったのに。髪も短かったしさぁ」
ピアスの付いた右側の耳に聡の声が聞こえてきた。
「もしかして、ナンパしようと思った?」
「まっさか。裸で砂浜走りまわってた女なんかナンパするかよ」
「はぁ? 裸でなんか走ってません。まぁ裸足でなら走ってたけど……」
聡が笑いながら懐かしそうに言う。
「砂浜で競争したっけ?」
「私が勝ったんだよね」
「はぁ? 俺だったろ?」
「私です!」
聡と話していると、昔の風景がどんどんと蘇ってくる。
男の子たちと裸足で走り回っていた砂浜も、眩しすぎる太陽も、どこまでも続く海と空も。
私は女の子と遊ぶより男の子と遊ぶ方が楽しかった。特に家が近所だった聡とは、毎日のように遊んでいた。私の実家には男の子同士みたいに肩を組んで笑っている、聡との写真が飾ってある。
私たちは誰よりも気の合う、最高の友達だった。
話してるうちに商店街を過ぎ、人通りが少なくなってきた。私の住むマンションはもう少し先。
すると聡が急に立ち止まって、薄暗い脇道を指さした。
「せっかくだしさ、ちょっと寄ってかない?」
「え?」
(まさかいきなり聡の部屋? いやいや、いくら幼馴染みで懐かしくなったからって、さすがにそれはまずいでしょ?)
「ちょうど酒もあるし」
私が固まってるの余所に自分のコンビニ袋を指さした後、聡は私の袋も指さして、悪戯っ子のように笑った。
「んじゃ、かんぱーい!」
聡のビールと私の缶チューハイがぶつかってコツンと音を立てる。
通勤で毎日歩いている道から、ちょっと脇に入ったところにある児童公園。
ブランコや滑り台がある小さな広場をぐるりと桜の木が囲んでいる。
聡はそこに私を案内し、街灯の下のベンチに座らせた。
「かー、うめー! 残業の後はやっぱビールだよな!」
喉を鳴らしてビールを飲んだ聡が笑う。私は缶チューハイをちびちび飲みながら、聡の横顔をちらりと見た。
ジャケットを脱いで、ネクタイも外して缶ビールを飲んでいる聡。
(子犬みたいに砂浜を走り回っていたあの聡がね……)
そんな風に思うとなんだかすごくヘンな感じがした。
(でもちょっとカッコよくなったかも)
いや、聡は昔からカッコよかった。だから女の子にモテてた。本人はまったく気づいていないようだったけど。
私はそんな聡から視線を外し呟く。
「こんな公園あったなんて知らなかった」
「こっち住んで何年だっけ?」
「……二年ちょっとかな」
大学を卒業し今の会社に入社した年、ここに引っ越してきた。
「どうせマンションと駅の往復しかしてねぇんだろ? せっかく住んでるんだからさ、もっと寄り道とかしてみろよ。おもしろい発見きっとあるから」
たしかに私は毎日、真っ直ぐ駅に向かって、真っ直ぐ家に帰ってくるだけだった。他の道なんて知ろうともしなかった。
「俺なんて、先週はこの公園で満開の桜見たし、本屋の前でいつも寝てる猫には懐かれたし、惣菜屋のおばちゃんとはコロッケ一個おまけしてもらえるほど仲良くなったぞ?」
(そうだ。聡はそういう人だった)
つまらないことも面倒なことも、全部楽しいことに変えて、気づかなかったことにも気づかせてくれる。そんな聡のまわりには友達がいっぱいいた。
「お、満月」
私の隣で空を見上げた聡がぽつりと言った。私は缶を口から離し、ゆっくりと顔を上げる。
公園の桜の木の上に丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
「ラッキーだな」
「どうして?」
「だって、あんな綺麗な月が見えたんだぞ? ラッキーとしか思えない」
「じゃあ月が見えない日は、アンラッキーってこと?」
「そうでもないな。月が見えない日は星がよく見えるだろ」
聡が満足そうに空を見上げながら、ビールを飲む。結局、聡は月が見えても見えなくても、幸せになれちゃう人。
そして、私はそんな聡のことが好きだった。だから小四の夏休み前、転校するって聞いて、私は真っ暗な部屋にひとり籠って泣いた。
ちょっぴり切ない思い出が蘇り、それを振り払うようにチューハイを飲む。甘くて苦い液体が熱い喉を通り過ぎ、空っぽの胃の中に溜まっていく。
「あっ、やべ、アイス食わねぇと」
聡の声で私もアイスの存在を思い出した。
「そうだった。溶けちゃう」
2人で慌てて、袋の中からアイスを取り出した。子どもの頃から好きだったソーダ味のアイス。聡のもまったく同じ。
シャクっとアイスをひと口食べたら、また一つ遠い記憶が蘇った。
あれは小学三年生くらいの頃。お母さんに怒られて家を飛び出した私は、公園のブランコにひとり座っていじけていた。すると、そこに聡が来て、私にアイスを差し出してくれた。
「これ、やるよ」
「え……」
ぼうっとしている私の手に聡はアイスの棒を持たせて言った。
「これ食うとさ、頭キーンってするじゃん? 嫌なこと忘れられるから。食ってみ?」
私は言われた通り、ソーダ味のアイスを歯で囓った。
「つめたっ」
顔をしかめた私を見て、聡が笑った。そしてもう一つ持っていた自分の分を開けて、それを同じように囓る。
「つめてー!」
空を見上げて叫ぶ聡を見たら何だかおかしくなって、いつの間にか気分も晴れていた。
あれから悲しい時や、悔しい時、私はこっそりアイスを食べる。あの日、聡がくれたのと同じ、空色をしたアイスを。
シャクっとアイスを囓る音がする。冷たさに聡が顔をしかめる。私の頬が自然とゆるむ。
「やっと笑った」
聡が私を見て言った。
「え?」
「コンビニで見かけた時さ、ものすごく怖い顔してたから」
確かに、あの時の私はバカ上司にものすごく腹が立っていた。だから今夜はさっさと家に帰って、アイスを食べて忘れようと思っていた。
「怖い顔にもなるよ。遊ぶことしか考えてなかった、あの頃とは違うんだからさ」
私の声に聡は一瞬動きを止め、すぐに小さく笑った。
「……そっか。そうだよな」
聡が私から視線を逸して前を向く。アイスを囓る音がする。
そんな聡の隣で私もアイスを食べた。冷たくて頭がキンッと痛む。
「……俺さ、落ち込んだ時とか、時々ここに来るんだ」
「えっ」
不意に聞こえた聡の声に私は声を上げてしまった。
「聡でも……落ち込んだりするの?」
「当たり前だろ。俺が何にも感じないヤツだと思ってたか?」
「ちょっとね」
聡が飲みかけの缶でコツンと私の頭を叩いた。
「俺だって落ち込むこと位はあるよ。仕事で怒られたり、ミスったり……」
意外だった。私の知っている聡はいつもへらへら笑っていて、落ち込んでいるところなんて見せたことがなかった。
私はここで一人、夜空を見上げて月を探す聡の姿を想像した。
そうしたら昔聞いた聡の言葉と、聡のカゴに入っていたアイスを思い出した。
(聡も嫌なことを忘れたくて、このアイスを買ったのかな?)
私は隣の聡に向かって聞く。
「もしかして、今夜も……落ち込んでたとか?」
聡はアイスを片手で持ったまま、もう片方の手でビールを飲んで呟いた。
「……ちょっとだけな」
「なんかあったの?」
少し考えてから、聡が答えた。
「元カノが……俺の友達と結婚することになった」
私は黙って聡の顔を見ていた。まさか聡の口から『元カノ』とか『結婚』なんてワードが出ることが信じられなかった。
聡は照れくさそうに缶を置いて、頭をくしゃくしゃとかいた。
「俺が悪いんだ。向こうから告白されてつき合ってみたけど、俺、女の子の欲しい言葉とか、してもらいたいこととか、よくわかんなくて……んで思ってた感じと違うってフラれた」
見た目はいいのに女の子に関しては鈍かった聡。聡を好きだった女の子たちの気持ち全然わかってなかったし、私の想いにもまったく気づかず引っ越してしまった。
そんな聡はあの頃に流行っていたカードゲームの一番大事にしていたキラカードを私にくれた。
聡のそんなところは大人になった今でも変わってないみたいだ。
「ま、俺の友達もいいヤツだからさ。俺といるより、きっと幸せになれるよ。はははっ」
乾いた声で笑う聡に胸がちくんと痛んだ。
「聡だって……いいヤツだよ」
私はチューハイの缶を握りしめて呟いた。本当はもっと気のきいたことを言えればよかったんだけど、何も出てこなかった。
「聡といると、気づかなかったことに気づくことが出来るよ。今日だって綺麗な月が出てること教えてくれたし。聡に会わなかったら私、真っ直ぐ家に帰って、嫌なこと忘れるためにアイス食べて寝るだけだもん」
「嫌なこと?」
聡がこっちを見て聞いた。私は慌てて、笑ってごまかす。
「ああ、私もね、いろいろあって……ムカつく上司とかさ、まぁいろいろ」
そして、聡の持っているアイスを指さす。
「ほら、早く食べなきゃ。溶けちゃうよ」
「……そうだな」
私と聡はアイスを囓る。溶けかけたアイスは柔らかくなっていて、なんだかちょっと切なかった。
「あっ!」
突然、聡が声を上げた。
「な、なに?」
「見ろよ、これ! あたり!」
(なんだ、びっくりさせないでよ)
「やっぱ今日はラッキーだな」
私は隣の聡を見た。聡は私を見て、嬉しそうに目を細める。私はちょっと呆れて、でもちょっとだけ幸せな気持ちになった。
「よかったね」
私たちのまわりの桜の木に優しい月明かりが差していた。聡は立ち上がると、公園の隅にある水道に行き蛇口をひねった。そこで何かを洗って、また私の前に戻ってくる。
「これ、やるよ」
私の前に差し出されたのはあたりの棒。
「え、なんで?」
「葵のおかげで元気出たから」
(私は何にもしてないのに……)
そう思いながら、聡からあたり棒を受け取る。
「ねぇ、聡」
ベンチから立ち上がり私は聞いた。
「ご飯、食べた?」
「ん? まだだけど。なんとなく食欲ないし、今夜はこれだけでいいかなって……」
私はそんな聡の前で笑顔を見せる。
「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ。そうだ、今から一緒にご飯食べに行こう! 明日は休みでしょ?」
そう言って聡の胸をポンッと叩く。聡はちょっと戸惑った顔をしたが、すぐに笑った。
「しょうがねぇなぁ。つきあってやるか」
私の大好きだった聡の笑顔が目の前に見える。
あの日、泣きながら机の引き出しにしまったキラカード。そのカードと一緒に閉じ込めた、聡への想い。
今夜その引き出しを少しだけ開けてみよう。
「お前の『いろいろあって』も聞いてやるよ」
「15年分、聞いてもらおっかな」
(そう、聞いて欲しいこと、聞きたいこと、たくさんあるんだ)
明日は土曜日。仕事は休み。今夜は15年分、話そうよ。
空き缶の入ったコンビニ袋をぶら下げて、私たちは歩き出した。
空の上には明るい月。
並んで歩く私たちを照らしている。
(やっぱり今日はラッキーだ)
お月様を見上げ、私は心の中で呟いた。