04
「大悟さん…」
そう。アパートの私の部屋の前にいたのは、彼だったのだ。1年ぶりに見た彼は何も変わってない。
異国の生活が彼には合わなかったのか、少しやつれたように見えた。
でも、彼を見て、私は確信した。
(やっぱり、まだ好きだ)
ずっと気持ちに蓋をしていたけど、彼の姿を目にした途端、そんな蓋は一気に吹き飛んでしまった。
突然、現れた彼にうるさいくらいにバクバク鳴っている心臓の音が聞こえやしないかと、はらはらする。
恥ずかしさと高鳴る胸を両手で押さえた私を彼は穴が開くくらいにじっと見つめてきた。
居心地が悪くなった私は視線を迷わせながら、何か話さなくちゃと、言葉を探した。
「あ、えっと……」
あっちはどうだった?
帰国は来週じゃなかったの?
なんで私のアパート知ってるの?
LINE見たでしょ?
ホトトギス、意味分からなかったよ?
私のこと、どう思ってるの?
言いたいこと、聞きたいことが たくさんあって、何から話せばいいのかわからない。
そもそも、会うと思わなかったから、驚いて頭が働いてくれない。
何も言わない私を見て、彼は ふう、と一つ息を吐いた。
「日奈子さんのご友人から、貴方の現在の住所を聞きました」
やっぱり。もしかしてとは思ってたけど。今度会ったらとっちめてやらなきゃ。
うむむと険しい顔をした私。それよりも、更に険しい顔をした彼が低く唸るように口を開いた。
「わかりますか、日奈子さん。5年も一緒にいた最愛の人から、LINE1つで別れを告げられた男の気持ちが」
「え?」
私の聞き間違いだろうか。なんだか今、とってもあり得ない言葉を聞いた気がする。混乱する私を置いてきぼりにして、彼は話を続ける。
「プロポーズの返事に別れを突きつけられて。連絡を取ろうとしても拒否されて。なんとか仕事を早めに切り上げてやっと相手のアパートに行ってみれば、そこはもぬけの殻になっていて」
すごく都合の良い幻聴を聞いているような気がした。悲痛な表情を浮かべる彼とは対照的に、私は呆けていた。
その私の両手を彼は自らの両手で優しく握った。
「ふられたのはわかっています。でも、どうしても諦めきれないんです。俺が重かったのなら、もっと日奈子さんの負担にならないように配慮します。だから、どうか側にいてくれませんか」
夢を見ているような不思議な感覚。こんなに嬉しいことを言ってもらえるなんて。
でも、すがるような彼の瞳と、微かに震える重なった手が嘘じゃない。これは現実なんだと教えてくれている。
「でも、私が一方的に大悟さんを好きだったんじゃ……」
恐る恐る、私が呟く。
「何を言うんですか! 俺が貴方から告白されて、どれほど嬉しかったと思ってるんですか。俺はこれまでも、一方通行ではなく、貴方を大切に思ってきましたよ。それに、何度も好きと伝えていたはずです。日奈子さんには俺の気持ちは届いていなかったんですか!?」
いつも優しく理性的な彼にはなく、私を責めるような激しい口調に思わずたじろいでしまう。
「で、でも、いつも私の部屋には絶対入りたがらないし……私にはあんまり興味ないのかなって。それに1年前、デートの度に変な空気になることがあったから……その、別れ話を切り出したいのかと思って……」
弱々しくも私が言い返すと、彼は自分の大きな手で顔を覆って、黙りこんでしまった。
「大悟さん…?」
「笑わないで、聞いてもらえますか?」
顔を隠したまま、彼はそう聞いてきた。訳もわからずに、はい。と返す。
「日奈子さんの部屋に入らないのは、俺にとって、けじめだったんです」
きょとんとする私を横目に彼は髪をくしゃりとかき上げた。
「日奈子さんの部屋に入ったら、居心地が良すぎて、もう自分の部屋には帰れなくなりそうで……格好悪いじゃないですか? 彼女の部屋に転がり込む男なんて」
(それって、私の部屋に入ったら、一緒に暮らしたくなっちゃうからってこと?)
心臓のバクバクがもっともっと大きくなってきてる。
「変な空気になったのは……俺が、貴方にプロポーズをしたくて……でも、できなかったからだと思います」
プロポーズ。この言葉を聞いて。私は腰が抜けて、へたりと座り込んでしまった。
「日奈子さん!?」
彼の慌てる声が聞こえたけど、私は構わず座り込んだまま、彼のネクタイを掴んで、ぐいっと私の方に引き寄せる。
「今日は私の部屋に泊まっていってください」
にまっ、と笑う。
(変な笑顔になっているだろうな、私。だって、涙が止まらないんだもん)
「日奈子、さん」
呟いた彼の声が少し、震えていて。なんだかそれを聞いたら、崩れていた笑顔がもっと崩れてしまった。
「格好悪くなんてないです。……一緒に暮らしていけばいいじゃないですか。これからずっと。一緒にいれるなら、私の部屋でも大悟さんの部屋でもいいです。だって、私たち結婚するんですから」
泣きながら、やっと言った言葉は、大悟さんの唇に吸い込まれていった。
初めて、大悟さんが私の部屋に入ったのは、私がプロポーズを受け入れた日だった。
二人ベッドに寝転びながら、私は息を整えて大悟さんに文句を言った。
「ホトトギスの意味、わからなかったんだけど……」
「え!? そうだったんですか?」
「結局、なんだったの?」
「まさか、通じていなかったなんて。日奈子さん、夏目漱石の訳詞がロマンチックで素敵って言うから、ロマンチックを追求して、たどり着いたプロポーズだったんだけど?」
「夏目漱石の話、覚えてたの?」
「勿論ですよ。俺と日奈子さんの大切な思い出ですから」
「……ありがとう。すっかり忘れてると思ってた」
「日奈子さん、貴方はもう少し俺の愛を知りなさい」
「なんだか、いつもと違いませんか?」
「色々と吹っ切れましたから。へたれ過ぎてもいけないって身をもって体験しましたから。もうあんな肝が冷える思いはしたくありません」
「もう、逃げられないよ?」
「………」
「あっ、ホトトギス!! あれの意味、教えて? ね!」
「……仕方ないですね。日奈子さん、ホトトギスをなんだと思ったんですか?」
「え、うるさくて自分で子育てしない肉食の鳥」
「……」
「わーごめん。だってそれしかわからなくて…」
「ホトトギスは鳥だけじゃありませんよ」
「え?」
「花にもあるんです。その花言葉が俺の気持ちです。日奈子さんは花言葉に詳しいようなので、わかってもらえるかと思ってました」
「えっと……チューリップとかバラとか、メジャーなものの花言葉しか知らないの。ホトトギスって花があるのも知らなかった……どんな意味?」
「日奈子さん、ちょっ耳を貸してください」
「えっ、はい」
言われるまま、私は耳を差し出す。
耳の近くで囁くように言われたその言葉に、私は耳まで真っ赤になってしまった。