02
「どうも、待ってましたよ。遠藤さくらさん」
開けてない窓に背を預けた先生は、携帯灰皿で煙草の火を消した。斜めに流れた黒髪は眼鏡の縁にかかり、レンズ越しにある切れ長の瞳は愉快そうに細まった。
「な、え、バ、バレ」
上手く喋れない私の言葉をすくい上げるように継ぐ。
「てましたよ。黒板消しを拾った時点でね」
くっくっと独特な笑い声を漏らし、先生は当然のように私の方へ歩いてきた。
陽炎のように揺らいで見える。
朝着たばかりのような完璧な身なりだ。真っ白なシャツには皺一つ無く、清潔感が溢れている。衣擦れの乾いた音にさえときめく。
(私ってかなり重症だ)
改めて感じた気持ちに打ちのめされると同時に闘争本能が目覚めた。
(このまま諦めたく、ない)
「ここ、赤いけど」
密かな決意をした矢先、先生の人差し指が私の額を小突いた。
「な!なにす、痛っ」
吃驚仰天した私は、退いた拍子に教卓の中で頭をぶつけた。身体はさらに奥へ隠れる結果となる。
「おいおい、いつまでしているんだ。早く出て来なさい」
覗き込んできた先生は私のガチガチに固まった手首を掴んで軽々と外へ出した。そのまま引っ張られて立たされる。
恥ずかしさに頬を染めた私は俯いて顔を手の甲で擦った。下を向くと私の上履きと向かい合う、先生の靴が目に飛び込む。かつてない距離の近さに瞠目し、狼狽えた。
何だか今日はいつもと一味も二味も違う空気が流れているような。
「何、怒ってるのか?そんなに隠れたければ、手伝おうか」
(ほらやっぱり)
いつもより三割増しに意地悪なことを言う。
「ち、違い、ます。そうじゃなくて」
私もおかしい。氷でもずっと舐めていたみたいに、舌が上手く回らないのだ。
言い淀むとそのまま声が出せなくなった。
たっぷり二人の間で沈黙が落ちた頃、先生の手が再び私の手首に触れた。
「な、何?」
「ん。ちょっと確かめたくてな」
(だから何を?)
それ以上訊ねることが出来なかった。目一杯握りしめた私の拳を先生の指が丁寧に解いていく。
最大級のパニックを起こした私は、目眩すら覚えてされるがまま。硬直しきった指を一本一本剥がしていくと、私の掌には真っ二つに割れた赤いチョークが転がっていた。
「はあっ!」
素っ頓狂な声を上げたのは私だ。チョークを握りしめたままだったのを、すっかり忘れていた。真っ赤に染まった掌を見ていると、そのまま顔にも色が移ってしまいそうだった。
「さて、コレを書いたの遠藤だろ?」
先生の声に促されて顔を上げると黒板の左端を見せられた。
「ただ、コレを叶えるには相応しい関係が必要じゃないか?」
言ってる意味が理解できず、私は盛大に瞬きを繰り返す。そうしていると、先生は私の手にある片割れのチョークを掴んで、黒板に押しつけた。その位置は、私が書いた告白の真下だった。
チョークをサラサラ走らせて書く先生の手が好きだ。少し骨張った、私とは違う逞しい腕。
見とれている場合ではなかった。先生の書きたての文字に私は息を呑んだ。
おそらく阿呆面を晒した私を見て、先生は会心の笑顔を披露してくれた。
「え!えぇ?先生、意味分かってますか?」
「先生にそんな質問をしますか?」
先生は顎に手を添えた。
「それなら、意味をはき違えないようにストレートに言ってくれる?」
頭の天辺から湯気が出るかと本気で思った。
「な、な、何それ!何でそんなこと言うの、先生おかしくない?」
私が人差し指を震わせながら先生に向けると、やんわり指を握ってきた。
(やっぱりおかしい!)
「うん。おかしいかもしれないな。遠藤のせいで」
含みのある微笑みだった。
「卒業するまでは我慢しようと決めていたんだがな。こんな可愛い告白を受けてしまっては、ね」
先生の手に包まれた人差し指に心臓がワープしたんじゃないか。体中どこもかしこも熱を持ち、今にもぶっ倒れそうだ。
「う、嘘っ」
「嘘?それは遠藤だろ?部活が終わるのを待ってる友達なんていないのに、毎日毎日放課後居残ったりして。バレバレだよ」
一年間ひたすら吐き続けてきた嘘を、あっさり暴かれてしまった。
顎が外れるほど口を広げた私は、ひたすら石像と化す。
「ま、知ってて話を合わせていた俺も嘘吐きだな。それもとびきり質の悪い」
先生の口調が所々崩れ始めたことに私はまだ気づけない。
「信じ、られ、ない」
ぎくしゃくと言葉を紡ぎ、私は先生の目をじっと見つめた。真意を推し量るように、力強く。
「ま、今は信じられなくてもいいよ」
ふっと口元をゆるめると、自信たっぷりに続けた。
「これからたっぷり証明していくから」
空いたもう一方の手を取ると、先生と私は挨拶をするような握手をした。
「ただし、明日以降にな」
だから今日はここまでと言わんばかりに、手の力を込めてきた。
私は重なった手が幻じゃないことをじっくり確認してから、遠慮気味にもう一度先生を窺った。
先生は、黒板を見つめていた。その横顔に飽きもせず、私の胸は何度も騒ぐ。先生が見つめる先は、赤いチョークで書かれた告白と返事。
薄暗い教室内でそこだけが淡く光って見えた。
『先生大好き。毎日会いたい』
『賛成』