信次 10
「あの子ならいないよ。父親の所に行っちゃったから」

「え……」


 誠たちが町を出た数日後、玄関から顔を出す沙耶香の母親の前で信次は呆然と突っ立ったままでいた。


「十ウン年一緒に暮らした母親よりも、一度も会ったことのない父親を選んだんだよ。あの子は」


 わけがわからず立ち尽くし、右手でスマホをぎゅっと握りしめた。


【ごめんね。私、信と一緒には行けない】


 沙耶香からの返信が来たのは今朝早くだった。


 気づいてすぐに駆け付けた沙耶香の家にはもう沙耶香の姿はなかった。


「父親の所って……どうして」


 沙耶香の母がふっと笑って、静かに呟く。


「あの子は私を捨てたんだよ」


 生ぬるい風が吹く。信次から視線を逸らした沙耶香の母親が、風に靡く髪をそっと押さえる。沙耶香とよく似た仕草を見ながら、信次は幼い頃に聞いた沙耶香の言葉を思い出す。




――お父さんがね、私のこと待っててくれてるの――


 いつものように、なんとなく堤防に座って海を見ながら、沙耶香は信次の隣で言った。


――私いつかきっと、お父さんの所に行く――


 沙耶香は母に内緒で、父と手紙のやり取りをしていると言っていた。だけど会ったこともない父と暮らすなんて、とても現実的には思えず、幼い少女だった沙耶香の妄想のようなものだとばかり思っていた。


「本気だったんだ……」


 沙耶香は捨てた。母親を、秀一を、この町を。そして信次をも。


「俺じゃ……ダメなのか」


 力が抜け、ため息と一緒に笑いがもれた。




沙耶香を連れてこの町を出るなんて

俺に出来る訳なかったのだ

馬鹿馬鹿しい

何もかも独りよがりだった

おかしすぎて笑えるよ



 沙耶香の母親に背を向け、海を見ながら坂道を下った。

 見慣れた海が次第にぼやけ、泣いていることに信次は気づいた。



鶉親方 ( 2020/08/07(金) 01:28 )