03
†「お待たせ。じゃ勉強するから応援してね。」
いつもならば10分程度の会話…結局は独り言…をカメラに向かいするのだが、今 日は辛い。 別に本当に勉強をする訳ではないが、口を開くのも辛い。 本当な らカメラを配線から引き抜き、壁に投げつけ、気の済むまで踏みにじりたい気分 だ。
冷えた勉強机に向かい、手を付けた事の無い参考書を開く。
片肘を突き、左手にペンを握り‥くるり‥くるり‥と所在無げに弄ぶ。
…嫌だ…
このところ部屋の中に無数の蠅が飛び回り、床を蛆虫が這い回っている…もち ろん幻覚に近い物だとは分かっている。 奴等の餌は私だ。私の体温、思考、心 を喰い、蝕んでいく様だ。
なぜこうなったのか分からない。 それまでは楽しくもあり、刺激的でもあっ た部屋の生活。 自分の使命にも似た感覚を持ってもいた。
…いつまで私は…
…まだ続けるの?…
…嫌だ、逃げたい…
…許して…もう…
…許して…
…お願い……
ペンが折れそうになる程に握り締めている自分に気が付き、ペンを置き、血の 気の失せた掌を見つめる。
白くなったペンの跡に‥じわじわ‥と血液が戻ってくる。
…まだ血が流れてる…いつまで私を人として生かしてくれるのだろう…一年…半 年…いや、明日かも…
いっその事、自分で終わらせたい衝動に駆られる。 おもむろに引き出しを開 け、中にあるカッターナイフを取り出す。 血の気の戻った手に握り締め、右手 の頸動脈を確認する。 私の形を保つ為に流れている血液が、紫色の筋になり浮 かび上がっている。
…糸だ…私と部屋とを繋ぐ糸…細くて脆い糸…糸を切れば私は解放される…部屋 から…そして……
握り締めたナイフが震える。 心の中を覆い尽くした暗雲、それを吹き消す事 が出来る喜び。 光が射すのだ、青く澄み切った空が現れ、私に暖かい太陽の光 を与えてくれるのだ。
…私に体温が戻る…私を優しく包んでくれる世界が待っているんだ…
…さぁ‥行こう……
ナイフの切っ先が‥ぬらり‥と鈍く光り、悪魔の爪にも見える。 その爪で一 掻きすれば全ては終わり、そして始まる…始まる……。
…始まる…本当にそうなんだろうか?雲が薄れ、光は射すのだろうか?…分から ない…
小さな懐疑に‥はた‥と手が止まる。
その空白に、カメラの存在、無数の視線を再び感じる。 それが戸惑いから諦 めに変わる。 なぜかは分からないが、自分を見つめる存在が、左手の気力を奪 っていく。
…助けられたのだろうか…それとも引き戻されただけ?…兎に角、私は変われな かった…
そう思うと、目の奥が熱くなり、涙が止めどなく溢れてくる。
頬を伝う涙の温さに自分を感じ、不思議と嬉しく思う。 自分の中の温度を感 じる喜び、泣いているのに嬉しい。
…泣いてるのに笑ってる、私…笑ってる…
机の上に立ててある手鏡に映る自分、溢れでる涙で薄化粧は剥がれ落ち、幾筋 もの線を頬に引いていく。
その惨めな姿が滑稽に見え、新たな笑みがこぼれる。
…汚い、変な顔、惨めなくせに…嫌なくせに…楽しくないのに…逃げ出したいの に……なんで…なんで笑うの?…馬鹿…馬鹿…馬鹿………
くしゃくしゃになった顔を両手で覆い、込み上げる薄笑いを隠しながら、低い 嗚咽を漏らす。
深い苦しみの嘆きが部屋を包み、急激に部屋を冷やしていく……