08
カッと熱くなる目頭をおしぼりで押さえると、僕は天を仰いだ。初めて会った女性に弱いところを見せてしまった。
いや、むしろ初めての相手だからこそいいのかもしれない。片意地を張らずに、僕は彼女の前で弱い部分をさらけ出すことが出来た。
「人を好きになるのって、難しいわよね」
僕の頭を撫でてくれた手は、煙草を取り出し、ライターを点ける役目に代わっていた。
「お節介かもしれませんけど、吸い過ぎは体に毒ですよ」
「分かってるわ。けど、止められないの。だから興味本位でも吸っちゃダメよ。麻薬みたいなものだから」
家族の誰も吸わないし、親戚でも吸うのはごくわずかだった。だから昔から煙草には縁がなかった。
「たぶん吸わないと思います。大人になっても」
「それがいいわ」
会話はそこで途切れた。あやかさんが上空に向かって吐いた紫煙を目で追うと、空気に混ざり合うようにして消えた。
「……あの、人を好きになるのは難しいって言っていましたけど、あやかさんでも難しいんですか」
何か話さなきゃと思った僕は、先ほど彼女が言った言葉を質問してみた。
「難しいわ。むしろ子供の頃より複雑になっている気がするの」
「複雑、ですか」
僕の言葉にあやかさんは頷くと、灰を灰皿へ落とした。ステンレスの灰皿には何本も吸殻がある。
「子供の頃は世間体も何もなかった。ただ、好きだからこの人と付き合いたいって思ったの。この人だったら身体を許せるって。男っていうのは老いも若きも行きつくところはセックスだから。まあ、これは女も変わらないけど」
飲食店でいきなりセックスなんて言い出すものだから、僕は慌てて辺りを見渡した。だけど、誰も僕たちのテーブルを見ている人なんていなかった。
「別に聞かれたって構いはしないわよ。大人のレクチャーをしているだけなんだから」
「はあ。レクチャーですか」
生々しいレクチャーだと思ったが、それは口から出ることなく飲み込まれた。
「そう。大人の悩みってね、タチが悪いのよ。幸せだけど、何かが足りないの。なんでか分かる?」
「愛が足りないからですか」
あやかさんは煙草を揉み消すと、かぶりを振った。
「そんな曖昧なものじゃないわ。知ってしまったからよ。大人になってから色んなことを。だからいつも比べちゃうの。相手の言葉の意味を考えてしまうの」
「すみません。なんだかよく分からないです」
上空に消えていった煙のような答えを僕は理解出来なかった。
「同じ言葉でも時にはたくさんの違う意味も込められてるってことよ。とにかく、今は素直な気持ちでいることが大事なんじゃないかしら」
「そう、ですね」
いまいち確信なんて持てなかった。素直な気持ちをさらけ出したところで、江籠さんが振り向いてくれるなんて思えなかった。
「ほら、男ならもっとシャキッとしなさい。大丈夫よ。見知らぬ女を助けてくれる子だもの。きっと上手くいくわ」
そう言ってあやかさんは煙草を取り出そうとすると、箱の中は空になっていた。お目当てのものを取り出せなかったあやかさんは、僕に聞こえるぐらいの大きさで舌打ちをした。