第五章「船頭多くして船山に上る」
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 初めて女性の胸を揉んだ高揚感で、冷静な判断を下せなかったことは否めない。白間さんに会った翌日、僕は早くも後悔し始めていた。おかげで授業には全く身に入らず、形ばかりノートへ板書して一日を終えた。
 最後のコマを終えたばかりの教室は騒がしい。喧騒の中で僕は机の上の物をカバンの中へ放り込んだ。
 
「今日はどうしたの。全然授業に集中してなかったね」
 
 隣の席からそんな声が聞こえた。僕は横を向くと、高柳明音さんの目と合った。
 
「そう? いつも通りだったけど」
 
 誰かから聞いた覚えがある。高柳さんは小嶋君と幼馴染だと。けれど、僕から見るに、二人はそんな間柄には見えなかった。
 
「悩み事? よかったら相談に乗るよ」
 
 高柳さんは正義感の強い人で、姉御肌のタイプだった。それを疎ましく感じる人がいるのも事実だが、僕は彼女のことが嫌いではなかった。
 
「大した悩み事じゃないよ」
 
「そっか。でも、いつでも話せることがあったら言ってね」
 
 自分の荷物をまとめ、帰ろうとする高柳さん。こうして、“引かれる”と、僕は弱かった。慌てて彼女を引き留める。
 
「ちょっと待って」
 
「何?」
 
「もし、もしだよ、高柳さんに好きな人が居たら、どんなタイプがいい?」
 
「何、それ。私のこと狙ってる感じ?」
 
 表情豊かな高柳さんは、含み笑いをした。
 
「違うよ。ただ、ちょっと参考にしようかなって」
 
「ははー。もしかしてハシケン、好きな子が出来たな」
 
「ちょっと、声が大きいって」
 
 相変わらず騒がしい教室内だが、誰の耳に入るかもわからない。僕は人差し指を鼻の前に立てた。
 
「ここじゃあれだから、場所を変えようか」
 
「うん。だけど、僕ってそんなに分かりやすいかな」
 
「そうね。めちゃくちゃ分かりやすいわ」
 
 高柳さんと並んで教室から出ていく。改めて人からそう言われると、僕は何だか自分が情けなく思えてくる。理想は常に冷静沈着な大人の男なのに。
 
「で、誰なの? うちのクラスの子?」
 
 人気のない場所へ行くと、高柳さんはさっそく訊いてきた。その目は爛々としていて、オモチャを前にした子供のようだ。
 
「違う。コンビニで働いている子」
 
 僕は江籠さんのことを話した。さすがにコンビニの場所までは言わなかったけど。
 
「へー。店員の子に一目惚れか。いいね、そういうの」
 
「高柳さんはそういう経験ある?」
 
「うーん。『かっこいいな』って思ったことはあるけど、付き合いたいとは思わなかったなあ。あくまで観賞用っていうか」
 
「観賞用?」
 
 本や絵画じゃあるまいし、人に観賞用なんてあるものか。
 
「そう。見た目がかっこいいと観賞したくなるじゃない。それと一緒。いくらイケメンでも観賞と付き合うのは違うからねえ」
 
「ってことは、僕のこの気持ちは観賞用ってこと?」
 
 江籠さんと付き合いたい気持ちは確かにある。だけど、それと同時に見ているだけで満足な自分もいるのだ。
 
「それは私には分からないけど、話を聞く限りだと違うんじゃない? ほら、男と女の価値観って違うと思うし」
 
「どう違うの?」
 
「うーん。説明は難しいけど、男が付き合いたいって思うのと、女が付き合いたいって思うのって、違うと思うのよね。上手く言葉に出来ないけど」
 
 それを説明してもらいたいのに。曖昧(あいまい)に笑ってみせる高柳さんを見て、これ以上追及しても無駄だと悟った。


( 2015/10/04(日) 06:23 )