第五章「船頭多くして船山に上る」
02
「橋本君?」
 
 人影から出て来た人は僕の名前を呼んだ。一瞬僕は誰か分からなかったが、街灯があったおかげですぐに誰か分かった。
 
「永尾先生だったんですか。いや、危なかった」
 
 国語科の永尾まりや先生だった。おっとりとした口調と、洋服の下に隠された身体つきから男子生徒に人気のある先生だ。
 男子生徒だけではなく、親身に話を聞いてくれるということから女性生徒にも人気があるのだと、いつか聞いたこともある。
 
「橋本君はこんな時間にどうしたの?」
 
 学校を終えた後に先生に会うというのは、どこか新鮮だった。
 
「ちょっとマラソンをしてまして。僕、部活に入っていないから太って来たかなって思って」
 
「そうなんだ。でもいくら男の子だからってあんまり遅い時間に出歩いちゃダメよ」
 
 咄嗟についた嘘だったが、永尾先生は上手く騙されてくれたようだ。整った顔をわずかに崩した。
 綺麗なんだけど、可愛らしい――どこか矛盾した永尾先生の評価を聞いたことがある。僕はようやくそれが理解出来た。
 よく美人は近寄りづらいというが、永尾先生の場合身長がそれほど高くないから、そんな雰囲気を感じさせなかった。僕もそんな身長は大きくないのに、永尾先生を見下ろしている。
 
「すみません」
 
「おーい」
 
 僕が平謝りすると、聞き慣れた男の人の声が聞こえた。
 
「あっ、秋山先生」
 
「橋本か。こんな時間に何をしてるんだ」
 
 小走りでやって来たのは、社会科の秋山祐介先生だった。噂では永尾先生と付き合っているという。
 
「マラソンです。あの、先生たちは付き合っているんですか」
 
 僕の質問に二人の先生は互いの顔を見比べた。
 
「黙っておいてね」
 
 肯定と受け取れる言葉で、永尾先生は人差し指を唇の前に立ててウインクをした。噂は本当だったんだ。
 
「見つかったのが橋本で良かったよ。じゃあ、頼むな。あんまり遅くなるなよ」
 
 秋山先生はそう言って、永尾先生の肩を抱いて夜の街へと消えて行った。その姿は男の僕から見てもスマートで様になっていた。
 あれが大人の男か。僕は二人が付き合っていたことよりも、秋山先生の女性扱いの上手さが衝撃的だった。
 
「教師同士の愛。いつもは教鞭を振るう教師といっても、結局は人間なのよ」
 
 二人と入れ替わるようにして、今度は白間さんがぬっと現れた。
 
「白間さん。どうしてここに?」
 
「バイトの帰り道よ。でもいいモン見れたわねえ。今度からこのネタで脅迫出来るわよ。『黙って欲しかったらテストの点数上げろ』って」
 
 ケラケラと笑い出す白間さん。きっと彼女が僕の立場なら本気でやりかねないだろう。
 
「そんな真似をするはずないじゃないですか」
 
「まあ、真面目な君ならそうよね」
 
 生温い夜風が吹いた。白間さんのとても短いスカートが風で揺れた。


( 2015/10/04(日) 06:21 )