第八章「誕生日」
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 独特な匂い。何度来ても変わらぬその匂いに、椎名は懐かしささえも感じ始めていた。彼女に会いに来たのだと、改めて実感する。
 看護師に尋ねることなく、ズンズンと進んで行く。まるで勝手知った我が家のよう。エレベーターを乗り、廊下を歩く。老若男女、様々な人たちとすれ違う。名前こそ知らないが、顔は知っている。椎名が会釈すると、向こうも返してくれるまでになっていた。
 
「久美ちゃん、入ってもいい?」
 
「どうぞー」
 
 ノックをし、入室する。ぶ厚いドアの向こうに居座る愛すべき女性(ひと)。椎名が微笑むと、彼女もそれを返してくれる。当たり前のことだが、当たり前でなくなる日がいつか来る。椎名の心にそれは重い鉛のように存在している。
 
「今日も雨だね」
 
「そうだね。毎日毎日、雨ばっかりで嫌になっちゃうよ。せっかく哲也君が来てくれるのに、スタイリングが決まらないよ」
 
 矢神はそう言いながら不満げに髪の毛を弄る。自分のために気にしてくれるそんな彼女を、椎名は愛おしく感じた。
 
「大丈夫だよ。たとえボサボサ頭でも、久美ちゃんは久美ちゃんだから」
 
「それはそうだけどさ。でもやっぱり恥ずかしいよ」
 
 ゆったりとした時間が流れる。椎名はほぼ毎日、矢神の元を訪れている。訪れたところで特に何をするわけでもない。ただ彼女と他愛のない話をするだけ。更に、そのほとんどが矢神の質問に椎名が答えるといった感じだ。
 外に出られない矢神の日々は変化のない毎日。大学生の椎名は、彼女よりも話題はある。「今日はこういうことがあった」と言えば、彼女は目を輝かせてそれを聞き、質問をする。そんなことを二人は楽しんでいるのだ。


( 2013/11/22(金) 03:47 )