第一章「沈丁花」
01
 春が近い。夜道を歩きながら椎名哲也は、季節の変わり目を感じていた。身を切るような寒さの二月が終わり、弥生の月である三月を迎えた。まだまだ夜は肌寒いのだが、明らかに体感温度は違っている。
 
 試しに息を吐き出してみる。これまでなら真っ白い吐息が見えたはずなのに、今は見えない。確かに春は近づいて来ているのだ。
 
 白熱色をした街灯を頼りにスタスタと歩く。閑静な住宅街に椎名の歩く音だけが響いている。ふと、椎名の鼻にいい香りが伝わってきた。立ち止まり、周囲を見渡す。食べ物の匂いではない。これは……花の香りか? 椎名は鼻を利かせながら歩くように意識をし出した。
 
 歩き始めて数分。再び椎名の足が止まる。視界には鬱蒼(うっそう)と生い茂る花。どこかで見たことがあるような気がする。椎名は、花の名前に疎い。これが何の花なのか思い出せないでいるのだ。
 
 近くに行き、その匂いを嗅いでみると、まさに先ほどから香っている匂いだ。強烈だが、不快ではない。まるでボールのように花が咲いている。この花の名前は……。椎名は再び沈思黙考した。
  
  
 そんな椎名の耳に
 
「沈丁花だよ」
 
という女性の声が届いた。椎名は「そうだ。沈丁花だ」という、この花の名前が分かったことに対する喜びと、いきなり声がかけられた驚きとの二極を味わう。声こそ女性らしかったのだが、本当にそうなのだろうか? もしかしたら声の高い男性なのかもしれない。
 
 椎名はその真贋(しんがん)を確かめるため、顔を上げる。街灯こそあるが、数メーター先しか見えないこの状況下。椎名の目に移ったのは黒い影だ。影といっても大まかな外見は窺うことができる。華奢な体。間違いない、女性だ。


( 2013/11/17(日) 00:43 )