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電車は規則正しい音を立てながら進んでいる。椎名はその揺りかごのような感覚に身を任せながら、目を閉じている。
こんなことになるとは思わなかった――卒業式を終え、このまま普通に自宅に帰るだけだと思っていた自分に降りかかった出来事。それに椎名の心はかき乱されていた。
――臭い。
椎名は突然の異臭に目を開ける。臭いのもとを探るように鼻を利かせた。
――いた。
臭いのもとはすぐに見つかった。隣に座るサラリーマンだ。三十代後半ぐらいの恰幅のいいこの男性からは、汗の臭いと酒の臭いがビンビンと発せられている。椎名はここで今日が金曜日だったことを思い出す。『花金』――今では死語になりつつあるこの言葉。『花の金曜日』の略で、金曜日の晩に飲み歩くことを言う。
椎名は考える。きっと彼は会社の人間たちと飲みに行ったのだろう。これから自分も大学生になればこういった付き合いもあるかもしれない。サークルにも入ろうと思っているし、友好も広げたいと思っている。
――だけど、この臭いは……。
先ほどまで沈丁花の匂いに包まれていた椎名にとって、この臭いは拷問に近いものに感じる。おまけに彼は煙草も吸うようで、ニコチンの臭いもプラスされていた。
お酒、汗、煙草。麻雀なら役満だろう。どんな人間でも嫌悪感を示すのかもしれない。まして椎名は未成年。お酒と煙草という嗅ぎ慣れない臭いに参ってしまうのも無理はない。
椎名はこの臭いから逃れるかのようにコートを脱いだ。これを鼻に当てれば、幾分マシになるだろうとの考えだった。
コートからは、かすかに沈丁花の匂いがした。