第一章「沈丁花」
09
「違うって。むしろ逆。相手が浮気をしていたの」
 
 そうだ。椎名が彼女と別れたのは、相手の浮気が原因だった。彼女は同性にも異性にも好かれていた。分け隔てなく接する彼女の周囲にはいつも人だかりができていた。椎名はそんな明るい彼女に惹かれ、告白をしたのだが、相手が悪かったのだ。
 
 付き合って三か月、彼女の浮気が発覚した。椎名は驚きよりも「ああ、やっぱりか」という気持ちの方が強かった。以前より、そんな兆候が随所(ずいしょ)に見られていたからだ。別れ話は彼女から切り出された。椎名は別に彼女が浮気をしても許そうと思っていた。もう一度自分のもとへ戻ってきてくれるのであればと……。
 
 だが、その願いは叶わなかった。彼女の心はすでに椎名ではなく、他の男に向いていたのだ。「ごめんね」と本心なのか嘘なのか分からない言葉を残し、彼女は椎名から去って行った。悲しみはなかったわけではない。だが、覚悟もできていた。涙が頬を伝っただけで、椎名はそれを受け入れたのだ。
 
「そう、なんだ……」
 
 さっきまでの明るい声が一変、沈んだ声になる矢神。まさか初対面の人間にこんな話をするなんてと椎名自身、後悔をした。こんな話をしてもどうにもならない。過去の話だ。話題を切り替えようと、頭の中で違う話題について思索している椎名の耳に
 
「帰ろうっか」
 
 そんな声が聞こえた。その声で我に返った椎名はスマホで時間を確認する。二十三時になろうかとしていた。まだ終電には若干の余裕があるものの、いい時間だなとも思った。
 
「何時? もうこんな時間なんだね」
 
 矢神がスマホを覗き込み、驚きの声を上げる。楽しい時間が過ぎるのはあっという間。それを双方ともに改めて実感をする。そして双方ともに思う。『時間が止まればいいのに……』と。


( 2013/11/17(日) 00:53 )