第四章
09
 すっかりと哲也の一人称は昔に戻っていた。しかし久美はそんなことよりも、哲也が言った言葉の方が胸に突き刺さった。
 
「なにそれ、笑えないよ。そんな笑えない冗談を言うのは止めてよ」
 
「冗談なんかじゃないよ。悪いことは言わない。僕と別れて東海林と付き合うんだ」
 
 ゆりあは何か言おうとしたが、哲也の剣幕に何も言えなかった。彼と知り合ってから、そんな様子を見るのは初めてのことだ。自分が言われているわけではないのに顔が強張り、姿勢はいつの間にか正しくなっている。
 納得のいかない久美は哲也に食って掛かった。
 
「意味が分からないし。なんで私が哲也君と別れて東海林と付き合わなきゃいけないわけ?」
 
 息を荒げる久美に対し、哲也の声は冷静だ。
 
「僕と付き合っても東海林が言うように、辛いことの方が多いよ。今後はもっと悪化するかもしれない。それだったらいっそのこと、健康な相手と付き合う方が久美ちゃん自身のためにもなるんだよ」
 
「……分かんないよ。どうしてそんなことを言うの? 哲也君は私のこと、嫌いになっちゃったの……」
 
「違う。それだけは絶対に違う」
 
 久美の目から涙が流れ落ちてきた。それは次々と溢れ出て来て、テーブルの上に落ちていく。たまらず、哲也は視線を逸らした。
 三人が座るテーブルは静かだ。ただ久美のすすり泣く声だけが聞こえる。周囲ではウエイトレスを呼ぶ音や、話し声、子供がバタバタと走り回る音がする。
 
「ほら、いつまでも泣いてないでよ」
 
 このままでは(らち)が明かないと思った哲也は、思い切って声をかけた。静寂を破るその声は機械のように冷たい声だった。
 
「誰のせいで泣いてると思っているのよ。こんな別れ話みたいなことを言われて、泣かない方がどうかしてるわよ」
 
「別れ話みたいじゃない。これは別れ話なんだ」
 
 ゆりあは気付いた。哲也の声がわずかに上ずっているのを。しかし、当事者である久美はそれに気が付かなかった。別れ話だと言われ、涙が止まるほどに驚く。
 
「なんでそうなの? なんでそういうことを平然と言えるの? 分かんないよ。もう私には何を言っているのか分かんないよ……」
 
「これも久美ちゃんのためを思って言ってるんだ」
 
「そんな言い訳を言うのは止めてよ!」
 
 大声を出し、立ち上がった久美に周囲は注目した。奇異な目で三人のテーブル席を見ている。
 
「言い訳じゃない」
 
「言い訳よ。哲也君は他に好きな子が出来たんだ。だから病気を理由に私と別れたがっているのよ! そんな人なんか、もう知らない」
 
 バッグを持つと、久美はそのまま店から出て行ってしまった。哲也は追いかけようとしたが、すぐに止めた。浮かせた腰を椅子に戻す。
 周囲は、奇異な視線を向けていたが、やがて痴話喧嘩なのだと分かると、視線を元に戻した。またすぐに元の喧騒が始まる。
 
「哲也さん、追いかけなくていいんですか?」
 
「いいんだ、もう。ねえ、ゆりあちゃん」
 
「はい」
 
「言葉を伝えるのって難しいよね。しかも言われた方は覚えていて、言った方は忘れてしまうんだ」
 
「哲也さん……」
 
「不器用な上に、言ったことを忘れていくんだ。今日あったこのことも、やがて忘れていっちゃうんだ」
 
「あの、泣いてもいいんですよ」
 
 その言葉を聞いた哲也の目から、(せき)を切ったように涙が溢れ出てきた。テーブルにポタポタと水溜りを作っていく。
 ゆりあはそんな哲也の背中を擦りながら、いつしか自分も泣いていることに気が付いた。


■筆者メッセージ
食べに行ったファミレスで、隣のテーブルがこんなことをしていたらたまったもんじゃありませんね。
隣のテーブルが気になって食事に手が付きませんよ(笑)
( 2014/05/24(土) 00:37 )