08
久美の言葉に哲也の眉がピクリと動いた。しかしすぐに食事を再開させる。
「病院だって? なんで病院に行かなきゃいけないの」
本当は哲也自身で分かっているはずだ。久美はそう感じてならなかった。ただそれを認めてしまうのが怖いのだろう。出来る限り久美は優しい口調で言った。
「うん、あのね。哲也君、最近物忘れが酷くなってるでしょ」
「そんなことはないよ。仮にそうだとしても、今は忙しいだけだから。頭が回んないんだよ」
料理を終えた久美がテーブルに着いた。彼女の目は潤んでいる。
「うん、小木ちゃんも仕事でのストレスの可能性もあるって言ってた。でも、事故の後遺症もあるかもしれないって……」
最後は消え入りそうな声であった。しかし哲也の耳にきっちりと届けられた。料理に手を付けていた手が止まる。
「後遺症って、事故から何か月が経ってると思ってるの? もう完治したよ」
「じゃあ物忘れの原因はなんなの?」
「それは……だから仕事でのストレスだって。もうしばらくしたら落ち着くよ」
認めたくなかった。認めてしまうことが怖かったのだ。これから先の生活に不安要素を持ちたくなかった。
自分に万が一のことがあったのならば――経済的な部分もあるが、まだまだ世間知らずの久美にこれ以上の負担をかけたくないのだ。なんとか久美を説得させようとする。
「ね、だから心配しなくていいんだよ。それよりも大学はどう? 楽しい?」
無理やりにでも話題を変えようとする哲也に久美は、俯いたまま顔を横に振った。
「……ダメだよ、ダメ。お願いだから病院に行って……」
「病院って言っても、必ず治るわけじゃないし」
哲也の言葉に久美は堪えていた涙が流れ落ちた。ポロポロと涙が瞳から溢れ、顔を両手で覆った。
「哲也君が心配なの。先生に大丈夫だって言われたら安心するから」
「でも……」
「お願い……」
グサリと久美の言葉が胸に突き刺さる。彼女は自分のことをこれほどまでに心配をしてくれているのだ。
思えば事故を起こした数日は、彼女はずっと自分のことを気にかけてくれていた。パートナーとしてあまり深くそれについて考えることはなかったが、いかに自分が幸せだったかということを改めて思い知らされた。
彼女の言動から察するに、このことを伝えるのは相当勇気がいるはずだ。彼女だって認めたくないのだ。だが現実に向き合おうとしている。哲也は恐怖から、様々な言い訳を使って逃げ出そうとしている自分を恥じた。
「……分かった。病院に行くよ」
きっと大丈夫なはずだ。哲也は久美の頬を撫でながら、自分を励ました。
涙で濡れた久美の頬は以前よりも細く感じた。