第三章
06
 真っ直ぐに汐莉の目を捉えていた久美の目は伏せられた。彼女が何を言っているのか、汐莉は理解が出来なかった。暖房が効いているというのに背中の辺りが冷える。
 
「……それはどういう意味?」
 
「うん。なんかおかしいんだよね、最近の哲也君。物忘れが激しくなったみたいで」
 
 久美の言葉に汐莉は、瞬時に事故のことを思い出した。目立った外傷こそなかったものの、事故で怖いのは後遺症があることだ。まさか哲也は――。
 
「前に小木ちゃん言ってたでしょ? 後遺症があるかもしれないって。もしかしたらそうなのかな……」
 
「なんとも言えないわね。後遺症ももちろん考えられるけど、単に仕事のストレスもあるし、ウツかもしれない。若年性のアルツハイマーも考えられるわ」
 
 言いながら汐莉は久美の顔をずっと窺っている。大事な友人という立場に立ってみれば彼女を不安にさせたくなかったが、看護師という立場上だと本当のことを言わなければならないと思ったからだ。
 久美がなぜ自分に相談を持ちかけてきたのか。看護師という立場を考えれば、こう言うほかなかった。
 
「どうしたらいいの?」
 
「とにかく一度病院に来てもらわないことには何とも言えないわ。仕事もあるだろうけど、哲也君に病院まで行くよう言って」
 
 力なく頷く久美に汐莉は視線を外へと移した。
 窓の向こうでは葉を落とし始めた木々の姿が見えた。桜が舞っていた頃がやけに懐かしく覚える。二人が同棲をすると聞いた時の驚きが、まさか一年も経たずしてこうなろうとは。
 人が生きていれば誰でも病気はするし、死にもする。看護師として汐莉はそれをずっと見てきた。自分を取り巻く環境に変化はなくとも、周囲には必ず変化は起きているのだ。
 
「ねえ、哲也君の物忘れが激しくなったのは、最近のこと?」
 
「うーん。最近だと言えば最近だし、でも仕事で前から何回かミスをしていたって言っていたから、もっと前かもしれない」
 
 久美に心配をかけさせたくなかったのか、大丈夫だろうという楽観視だったのか分からないが、やはり本人に話を訊いてみないことには始まらないようだ。
 
「小木ちゃん……哲也君は大丈夫だよね?」
 
 叱られた子供のように目を伏せながら久美は訊いてきた。汐莉は頭で考えるよりも先に口が開いた。
 
「大丈夫よ。そんな心配してたら哲也君が逆に心配しちゃうわよ」
 
 その言葉は看護師の言葉ではなく、友人としての言葉であった。
 汐莉はコーヒーを飲んでいなかったことを思い出した。カップを持つと、すっかり温くなったそれを汐莉は一口飲んだ。


■筆者メッセージ
さてさて。
物語は動いていきます。
汐莉は出しましたが、ゆりあはどう出そうか悩む今日この頃(笑)
( 2014/03/24(月) 21:14 )