第七章「紗矢」
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 状況が一変したのは、沙矢と出会って三ヵ月後のことである。川本家が経営する牧場の牛が脱走し、入園客に突っ込んだのは。
 猛然と暴れ回る牛に踏み潰された老婆が死んだ。一緒にいた孫は背骨を折る重傷で、下半身不随となってしまった。まだ小学校に上がる前だという。そんな年齢の子が車椅子生活を送る羽目になってしまったことに、世間は川本家を非難した。

 紗矢の父親が涙ながらに謝罪をする姿を、恭一郎は自宅のテレビで観ながら、契約はどうなるのだろうと思った。そう。恭一郎はあの時、彼女である紗矢の父親のことなど全く心配していなかった。
 頭の中にあるのは、面倒になったなということだけだった。

 それから、一ヶ月もしないうちに、事態は更に悪化した。BSE(牛海綿状脳症)が川本家の牧場から検出されたのだ。世間の評価はこれで完全に地に落ちた。
 そう。あの時全てが重なってしまったのだ。たまたま牛舎の一部に隙間が出来ており、たまたま牛がそこから出て行ってしまった。
 それに気付いた職員が大声を上げてしまったせいで、牛を興奮させてしまったこともたまたまであり、運悪く入園客に老婆とその孫がいてしまった。

 全て運が悪かったとしか言いようがなかった。
 不運は重なるものである。

 BSEにおいても、結局死者は感染患者は一人も出なかった。他の畜産農家でも見られたはずなのに、矢面に立たされたのは川本家だった。
 ただでさえ、つい先日不運な死亡事故を起こしてしまったばかりである。失った信用を取り戻そうと躍起になっていたところに降りかかった災いによって、川本家は多額の借金を抱えた。
 無論牧場は閉鎖した。稼いでいる時にはわらわらと寄って来た人間たちも、蜘蛛の子を散らすように去って行った。

「ねえ、恭一郎さん。私はどうすればいいの……」

 憔悴しきった表情で紗矢は恭一郎に救いを求めた。すでに契約は打ち切っていた。無論恭一郎がさっさと切れと総一郎に迫ったのもあるが、役員たちは満場一致であったがために、総一郎も泣く泣く切るしかなかった。

「さあな」

 契約さえ無くなれば、この女にはもう用なんてなかった。むしろさっさと自分の前から消えて欲しかった。首を吊って死んだ父親のように。
 そう。川本家の父親は逃げたのだ。嫁と娘を置いて。箱入り娘を置いてさっさと死んでいった父親のせいでこの女が苦しんでいるのは、もはや諧謔(かいぎゃく)としかいえなかった。

「さあな、って。ひどいっ。私たちの関係ってこんなものだったの? ねえ、嘘でしょ。助けてよ、恭一郎さん」

 (すが)り寄る紗矢を、恭一郎は煙たそうな目で見ると、その手を払いのけた。

「契約だ。お前とは契約があるから渋々付き合ってやってたんだよ。俺は最初からお前と付き合う気なんてサラサラなかった。だから清々したよ。これで別れられるってな。親父もさすがに納得するだろ」

 情に厚い総一郎とて、もはや川本家とは関わりたくないだろう。わざわざ沈み行く船に誰が乗船したいものか。

「酷い、酷いわ。恭一郎さんがそんな人だとは思わなかった……」

 恭一郎と紗矢の関係はセックスの後によく似ていた。


■筆者メッセージ
小説はいいです。
自分の好きなメンバーで好きなように書けますから。
( 2016/02/01(月) 00:49 )