第二章「恭一郎」
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 社長室へ入室すると、すでに社長である総一郎がソファーに腰を下ろしていた。秘書の田中は一礼すると、その横へと座った。
 恭一郎は頭を下げることなく、総一郎と対面する席へ腰を下ろした。麻衣は頭だけを下げて、ソファーには座らず、恭一郎の背後に立っている。

「忙しいところ急に呼び出してすまなかったな」

「別にいい。で、用件は?」

 社長と副社長でありながら、同時に親子でもあった。恭一郎は社長に対して敬語を使わなかった。

「インドへの拡大は(おおむ)ね順調だ。首都デリーを始めとする都市部にウチの会社を拡大し続けられている。それもこれも――」

 総一郎は、全ては恭一郎の慧眼(けいがん)があってこそだと言おうとしたが、恭一郎が口を挟んだ。

「言っておくが、中国への進出は反対だからな」

 総一郎の目が一瞬見開かれ、すぐに閉じられた。どうやらお見通しだったようだ。

「分かったか」

 力なく総一郎は言った。

「分かるよ。もういい加減中国は諦めろ。人口は多いかもしれないが、いかんせん汚過ぎる」

「汚過ぎる、とは」

「国も人も、だ。人口が多く、生産率も見込める。おまけに奴らは手先が器用だ。車の整備なんてお手の物だろう。しかし――」

 恭一郎は一旦言葉を区切ると、テーブルに置いてあるお茶を口に含んだ。

「奴らは信用してはならない。金や名誉のためなら平気で人を裏切る。その点、インドの連中は“まだ”マシな方だ」

 目を閉じたまま恭一郎の話を聞いていた総一郎は、閉じていた目を開いた。開かれた視線の先にいるのは、我が息子であり、副社長である。
 その先にいるのは、会社に不釣合いな衣装を纏ったメイドのような女だった。いや。メイドそのものだった。恭一郎の手によって、彼女は玩具とされてしまったことを、総一郎は知っていた。

「私たちが中国への参入を目指していた時、(かたく)なに反対していたのは恭一郎だった。中国の代わりに、インドへの参入を推していたのも恭一郎だ。結果的にお前の慧眼があって、会社は損失をすることなく海外への参入を成功させている。間違いなくそれはお前のおかげだ。だが――」

 期は熟したのではないだろうか。不用意な発言をした外務大臣はその後辞任し、それから間もなく行われた国政選挙において、野党の第一党が変わった。
 そう。全てが変わったのだ。総理大臣も、外務大臣も。人事があったのは、何もTSUBAKIグループだけではない。

「俺は何を言われようが、中国への参入を認めない。どうしても親父がそうしたいのであれば……決別だな」

 それはつまり、グループ会社の別離を意味していた。恭一郎と別れ、ライバル会社として戦うことになる。勝ち目は……なかった。総一郎は知っていた。自分よりもはるかに息子である恭一郎の方が才能に溢れていることを。
 祖父から受け継がれた血。それは総一郎には受け継がれず、そのまま恭一郎へと流れたようだ。この男の慧眼に勝てる見込みなど、万に一つもなかった。

「……私は負ける勝負をしない主義でね」

「勝てる勝負ばかりしてたらつまらないぜ」

 総一郎は苦笑いを浮かべながらかぶりを振った。

「私にとて部下がいる。社員たちを路頭に迷わせるわけにはいかないのだよ」

■筆者メッセージ
中国に対してのあくまで個人的な見解ですよ。
あの国っていつも何か爆発しているイメージがあります。
( 2015/12/27(日) 16:46 )