第四章
08
「重度の夏風邪ですね」

 カルテを見ながら医師である男は言った。指が長く、眼鏡をかけて眉間に皺を寄せている。いかにも神経質そうな男だった。

「夏風邪ですか」

 冷房がこんなにも寒く感じるのは、久しく経験がなかった。

「ええ。治るまで時間がかかるそうです。お薬は――」

 ぼんやりとした頭で文也は男の言葉を聞いた。

 具合が悪化したのは、嘔吐してから数時間が経った頃だ。寒気が止まらず、そのくせ頭は熱っぽかった。もう風邪であることは間違いないと判断した文也は、早退を申し出た。
 本当は病院なんか行きたくなかったが、会社を早退した手前、行かなければならなかった。予約もせずに行くと待たされるのが、文也の病院嫌いに拍車をかけている。

 案の定、自宅から最寄の病院へ行けば、待合室は人で埋まっていた。平日の病院は、大半は老人たちで、あとは子供を連れた親子が何組かいる程度だった。
 老い先の短いくせに、何をそんなに長く生きようとするのだ。老人は大人しく、迫り来る死を受け止めればいいものを。
 真夏の日差しで気温がグングンと上がるように、文也の熱もまたうなぎ上りをしていた。待合室で計った体温計は三十九度を超えていた。

 待合室のソファーに座りながら、文也は七瀬がなぜ人類が滅びることを欲しているかが分かったような気がした。死に抗う狡猾(こうかつ)な老人たち。若者たちの税金で暮らさせてもらっているというのに、感謝の気持ちもなければ、養ってもらって当たり前だといわんばかりの顔をしている。
 病院も病院だ。毎日暇でしょうがない老人たちよりも、働き盛りの若者を優先して治療をしないものか。福祉なんてものは、健康な若者がいてこそ成り立つものではないのか。

「最近ちょっと膝が痛くてね」

「へえ、膝がねえ。そりゃあ歩くのが億劫(おっくう)になるね。私はね、高いところに手を伸ばそうとすると眩暈(めまい)が酷くて」

 横で聞こえるのは、老人たちの不幸自慢ならぬ、病気自慢だった。

「血圧が高くて」

「最近胸がギュッと締め付けられるような気がして」

「肩が……」

「腰が……」

 ぶん殴ってやりたいのに、文也は立ち上がるのでさえ辛かった。いつもは休みの日にうるさいクソガキたちの声に苛立ちを覚えているのに、そんなものは可愛いものだと分かった。
 未来のある子供たち。未来もないくせに、今世をギリギリまで生きながらおうとする老人たち。本当の自分の敵が誰なのか。文也は握り(こぶし)を作ろうとしたが、身体に力が入らなかった。

 散々待たされた挙句、診察はものの数分で終わった。注射を打ち、薬をもらえば、文也はさっさと病院を後にした。これだけのことなのに、どうしてあんな時間がかかるものか。
 もう絶対に病院なんて行くものか。すれ違う老人ですら今の文也にとっては憎い存在だった。もう疲れた。今日はゆっくり休もう。文也は寄り道することなく、家路を急いだ。

■筆者メッセージ
以上で第四章は終了となります。
さあ。第七章ないし第九章で終われるか。
( 2015/12/30(水) 11:20 )