第四章
05
 夏の空はすでに明るくなり始めていた。東からは朝焼けが出始め、西の空には薄い月があった。文也は大きな欠伸(あくび)をすると、横に並んで歩く七瀬のことを見た。
 茶色く染めた髪は、頭頂部が黒くなり始めていた。また近々染めるだろうか。営業マンの文也は染髪厳禁だったが、女たちはこぞって染めている。
 それに対して理不尽だとは思わなかった。それならば、染髪が許される職種にでも就けばいいのだ。野球界だって、染髪が流行っている。

 そうだ。みんな野球選手になればいい。野球はいい。打って、投げて、走って、サラリーマンが一生かかって稼ぐ金を一年で稼ぐ。高級車を乗り回し、ロレックスの腕時計を嵌める。羽振りがいいから、日本の経済も潤うこと間違いなしだ。
 
「ところで、文也さんはサッカーに興味はなくて?」

「ない。全くない。フランス大会だろうがなんだろうが、どうでもいい。もしかして、七瀬はサッカーに鞍替えしたか」

 そうなれば由々しき問題だ。日本人のDNAにサッカーは刻まれてない。滔々(とうとう)と流れる赤い血には、野球の血が脈々と流れ通っているのだ。

「鞍替えまでいかないけど、中田とかいいなって思う時があるの」

「ああ。奴か」

 三年前に行われたアトランタ五輪。『マイアミの奇跡』のメンバーである中田英寿は、サッカーにあまり興味のない文也でも知っていたし、一匹狼のようなところも気に入っていた。

「いいセンスをしてる。だけど、俺なら川口を推すな」

 その『マイアミの奇跡』において、今なお語り草となっているのは、GKの川口能活だった。

「川口はいい。野球選手に通ずるものがある。サッカー選手にしておくのには勿体無いほどだ」

 熱き心を胸に秘め、日本の(とりで)を守る。神がかり的なファインセーブを何度も繰り返し咆哮する姿は、獅子の(いなな)きに似ている。

「あなたはもう。サッカーの話をしても結局野球の話になるのね」

「俺にはそれしかないからな」

 それを分かった上で、俺と付き合っているんだろ――喉まで出掛かったが、文也はそれを飲み込んだ。そこまで七瀬が自分に見惚れているとはまだ実感がなかった。

「三年後は日本でやるみたいね。ま、その時にはとっくにみんないなくなっているけど」

 朝焼けの空が濃くなってきた。七瀬の顔の先には、燃えるような空が広がり始めている。

「なあ……いや、なんでもない」

 なんでそんなに人類が滅ぶことを願って止まないのか。訊きたくて仕方ないはずなのに、どこかそれを恐れている文也がいた。
 真実を知るのが怖い。そんなことを思ったのは初めてのことだ。いつだって自分は白黒ハッキリさせたい人間だったはずなのに。

「変なの」

 そんな文也の気持ちを知ってか知らずか、七瀬はふふふと笑って見せた。

■筆者メッセージ
『ドーハの悲劇』『マイアミの奇跡』『ジョホールバルの歓喜』
日本のサッカー三大イベントなんだって。
( 2015/12/26(土) 12:02 )