第三章
04
 おしぼりを畳んで、目の周囲を覆い隠すと何も見えなくなった。目の前にいるはずの七瀬。文也はその顔を見たくなくなっていた。
 視覚を覆うと、耳が普段なら聞き流している音たちを拾った。歩く音。コーヒーを啜る音。店内に流れる音楽。誰かが足でリズムを取っているのか、タンタンと革靴の音さえも聞こえる。
 
 一体この女はどうしてこんなにもノストラダムスの大予言を信じて疑わないのだろう?
 
 暗闇の中で浮かぶ七瀬のシルエットには、いつも悲壮感が漂っている。初めて会ったあの夜も、飲みに行ったあの夜も、彼女から来年人類は消滅するのだと告白されたあの夜も――。
 回想していると、文也はあることに気が付いた。七瀬とはいつも夜だった。野球観戦に行った日は昼間だったが、結局夜の印象が強いし、むしろ夜が本番だった。
 
 悲壮感と夜はセットだったのか。女と夜。何もセックスだけじゃないと知った文也は、口笛を吹きながらおしぼりを外した。
 西日が差しこむ窓。ブラインドを下ろしているが、ハッキリと西日の存在を感じた。命を燃やしているかのよう。今の自分たちのように――。
 
 七瀬はまだいた。てっきり愛想を尽かして帰っていると思ったのに。
 七瀬は自分の身体を抱きしめるように腕を回し、目を閉じていた。文也がダラリと伸びた前髪を触ろうとしたら、気配に気づいたのか、パッと目を開けた。
 
「やっぱり人類は滅びるわ。あなたが信じてくれなくても、それは絶対に間違いないの」
 
「まだ君はそんなことを考えていたのか」
 
 突き詰めた人間というのがいる。物事を究極へと高めようとする人間。松坂大輔が百六十キロを追い求めるかのような人間がここにもいた。
 松坂と七瀬。似ても似つかわない二人が意外なところで共通点があったとは。文也は思わず声を押し殺しながら笑った。
 
「いいよ。七瀬さん。信じてやるよ」
 
 想像する。来年地球上から人間がいなくなる。倉持も、取引先の人間も、会社の人間も。みんな一斉にいなくなる。光に包まれて。
 暗闇にパッと間接照明を点けたみたいな光が見えたかと思うと、自分たちは光に飲み込まれる。闇ではない。光だ。
 まばゆいばかりの光はとても温かくて、優しい。羊水の中で育まれる赤子のように、文也たちは身を預ける。
 
 そう考えると、悪い気はしなかった。ライオンズの優勝を味わうと等しいほどの魅力を覚えた。岩崎文也は二十五年の生涯をライオンズと共に過ごし、ライオンズと共に閉じた。
 文也の口角が緩やかなカーブを描く。悪くない死に様だ。
 
「やっぱり文也さんだったら信じてくれると思った」
 
 安堵した表情を見せる七瀬を見た文也は、彼女の手に自分の手を重ねた。どんな愛だって構わないじゃないか。例え、終わりゆく世界を望む者同士だって。
 小さく細い七瀬の手。それが文也の手でスッポリと覆われる。七瀬は歯を見せながら微笑んでいた。


■筆者メッセージ
終わりを望む二人。
今作はそんな小説になります。
( 2015/12/02(水) 18:59 )