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第一章「静謐(せいひつ)」
05
 週末の午後、蓮は部屋の掃除をしていた。

 窓を開け放つと、冷たい風がカーテンをふわりと揺らし、部屋の空気が新しく塗り替えられていく。

 古びた集合写真を見つけたのは、押し入れの奥に眠っていた段ボール箱の中だった。

 やわらかい日差しの下で、白く色褪せたプリント写真。裏には「3年1組 文化祭」とだけ、青いボールペンで書かれている。


 蓮は、その一枚をそっと持ち上げた。

 ぎっしりと並ぶクラスメイトたちの顔の中、自分の居場所を探す。

 一番左端。半歩だけ後ろに下がった位置で、身体の半分がフレームからこぼれかけている。

 顔はぎこちなく、笑みも弱い。


 ――ああ、やっぱり俺はここだったな。


 そう思いながら、彼の目は自然と写真の中心に向かう。

 輪の真ん中。誰よりも明るい笑顔で、肩をすくめるようにしてピースをしている少女。


 齊藤京子。


 周囲にはクラスの女子たちが集まり、誰もが彼女の方を向いている。

 その姿はまるで、小さな太陽だった。


 誰とでも分け隔てなく話し、空気を和らげる声と笑顔。

 けれど、蓮は知っていた。

 京子は、時々“自分にだけ”話しかけてくれることがあったことを。

     *

 あれは、たしか秋の終わり。

 文化祭が終わった後の、ひどく風の強い放課後だった。


 図書室に寄って帰ろうとした蓮は、靴箱の前でひとり座り込んでいる京子を見つけた。

 風で落ちた落ち葉をかき集めて、何かをしていた。


「……なにしてるの?」


 思わず声をかけたのは、自分でも不思議だった。

 京子は顔を上げて、いたずらっぽく笑った。


「なんか、ね。葉っぱって集めてると楽しくなってくるの。わかんないけど」


 そう言って、近くにあったビニール袋に葉を集めていた。

 「ちょっとだけ手伝って」と言われ、蓮は無言のまま隣にしゃがみ込んだ。


 風が吹くたび、葉は逃げていった。

 でも、京子は追いかけずに笑った。


「また逃げたね。風のせいにしよ」


 その瞬間、蓮はふと、自分が“孤立していない”ような気がした。

 無言のままうなずいた自分に、京子は飴玉をひとつ差し出した。

 「甘いの、苦手じゃないよね?」と、確信したように。


 彼は受け取り、そのまま何も言わなかった。

 だけど、帰り道、ポケットの中で何度も飴を握りしめたことを、今もはっきり覚えている。


 それから京子と蓮は、校内で何度か言葉を交わすようになった。

 頻繁ではなかった。約束もしなかった。

 けれど、“ふとしたときに、隣にいる”ことが増えていった。


 朝、教室に早く来た京子が、自分の席に座る前に蓮の机に立ち寄る。


「今日、英語の単語テストあるって知ってた?」


 そう言って、笑いながらポケットから手帳を取り出す。


「……知らなかった」


 蓮はうつむきがちにそう答えると、京子は机に突っ伏しながら笑った。

「だよねー。私もいま知った」


 ただ、それだけ。

 でもその日、蓮は授業の合間にノートを開いた。いつもよりほんの少し、手が真剣に動いた。

     *

 図書室の入口。

 読みかけの本を返しに行った蓮が、カウンター前で京子と鉢合わせたことがあった。


「わ、奇遇。よくここ来るの?」

「……うん」

「私もたまに来るよ。静かだし、落ち着くし」


 そう言いながら、彼女は貸出カウンターで借りた本を胸に抱える。

 背表紙には『詩集』と書かれていた。


「詩、好きなの?」


 初めて蓮から問いかけたその一言に、京子はぱっと顔を明るくして答えた。


「うん、短くて、でも意味がいっぱい詰まってるのが好き」


 そのとき、蓮は彼女がただの“明るい子”じゃないことに気づいた。

     *

 ある日の放課後。

 廊下で京子が体育のプリントを落とし、それを拾った蓮に向かって、彼女はふと聞いた。


「ねえ、蓮くんって、なんか……寂しくない?」

「え?」

「……ううん、ごめん。変なこと言った。忘れて」


 そう言って去っていった京子の背中を、蓮はその日、なぜかずっと目で追っていた。


 彼女はただ明るくて優しいだけの存在じゃなかった。

 人の気配に敏感で、言葉の裏にある“静けさ”を、感じ取ることができる人だった。

     *

 やがて、ふたりは同じ時間に図書室へ行くようになった。

 会話は短く、周囲の友人たちには気づかれていなかった。

 それでも――蓮は思っていた。


 世界の中で、たった一人だけ、自分のことを“気にかけてくれる人間”がいる。


 それだけで、毎日が少しだけ柔らかくなる。

     *

 写真の中の京子は、いつもと同じ明るさで笑っている。

 でも、蓮の中には、誰も知らない京子の笑い声や、少し眉をひそめた表情、

 飴玉を差し出すときの小さな手のひらの感触が、まだ残っていた。


イカのお寿司 ( 2025/05/18(日) 00:19 )

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