02
町の印刷所を出たのは、いつも通りの午後五時半。
機械音の残響がまだ耳に残るなか、蓮はタイムカードを静かに押し、「お疲れ様でした」と誰にともなく小さく呟いた。
周囲には何人かの同僚がいたが、誰も彼の言葉に反応しなかった。
蓮自身も、それを気にするそぶりは一切見せない。まるで、“返事のない会話”に慣れきっているかのように。
細い夕暮れの道を歩き、スーパーで食材をいくつか買い、黙って帰路につく。
鍵を回して玄関を開けると、無人の室内に冷えた空気が漂っていた。
「……ただいま」
その一言は、空間に溶け込むように消えた。
誰かが迎えてくれるわけではない。それでも彼は、玄関に向かって軽く頭を下げて靴を脱いだ。
その所作は、どこか“返事がある”ことを前提としているようにも見えた。
*
夕飯は肉じゃがと味噌汁、そして炊きたての白米。
手際の良さは一人暮らしの域を超えており、配膳も整然としている。
テーブルには箸が二膳、茶碗も二つ――そのうちの一方は、蓮のものとは明らかにサイズやデザインが異なっていた。
しかし彼は、それに特に意識を向ける様子もなく、当たり前のように対面の椅子に視線を投げた。
「今日は寒かったね」
呟きは、誰かと共有する食卓のように優しかった。
だが返事はない。
それでも蓮は、まるでその“無言”さえ会話の一部であるかのように微笑んだ。
*
食後、歯を磨き終えると、蓮は寝室へ向かう。
部屋の隅に置かれた小さなドレッサーの上には、整えられた櫛とヘアピン、そして口紅が一本。
彼が触れることはない。それはまるで“誰かの私物”として、そこに置かれているようだった。
カーテンを閉めると、蓮はベッドの脇に腰を下ろし、何かに語りかけるように目線を落とす。
そして、布団の中にそっと手を伸ばす。
「京子、寒くない?」
その先に、誰かがいるかのように。
布団の中で何かを優しく包むようなその手には、確かなぬくもりが――あった。