第一章「静謐(せいひつ)」
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 ファミレスのドアが開くと、ひやりとした冬の風が肌を撫でた。

 吐く息が、白く空へ溶けていく。


「寒いね」


 京子がそう言いながら、コートの襟をぎゅっと掴んだ。


 蓮は「……そうですね」とだけ応えて、自然と駅のある方角へ歩き出した。

 京子も何も言わず、隣を並んで歩き出す。


 冬の朝。土曜日のせいか、駅へと向かう道には人の姿がほとんどなかった。

 遠くに見える自動販売機の灯りと、始発を告げる電光掲示板の文字が、朝を無言で照らしていた。


 駅前のロータリーに出ると、徐々に彼女の足が緩やかになった。

 それを察した蓮も、自然と歩みを落とす。


 改札の前で、京子が足を止めた。


「……じゃあ」


 そう言って、蓮はほんの一瞬、言葉に詰まる。

 連絡先を聞くべきか、もう一度どこかで会いたいと言うべきか――

 だが、何も言えなかった。


 彼女が抱えているものが、自分にはまだ触れてはいけないものに思えた。

 だから、何かを言いかけて、結局、ただ一言だけを選んだ。


「また」


 それだけを残し、蓮は京子に背を向けた。


 けれど、その数歩先。

 肩の後ろで、ふいに何かが服の裾を引いた。


 驚いて振り向くと、京子がほんのわずか、彼の上着をつまんでいた。


 目が合う。

 その目は、どこまでも真っ直ぐで、でもどこか、泣き出しそうにも見えた。


「……やっぱり、帰りたくない」


 その言葉は、小さな、けれど抗えない震えを帯びていた。


 言葉が、出なかった。

 駅の自動改札機が、何かのカードを読み取る音だけが、乾いた空気に響いている。


 人影はない。

 土曜日の早朝、駅の中心には、ふたりだけが立っていた。


 時間が止まったようだった。

 周囲の音も、温度も、全部がどこか遠くへ行ってしまったような感覚。


 蓮はゆっくりと、京子の手元へ目を落とした。

 彼女の指先は、まだ彼の裾をそっと握っている。

 それはまるで、寒さに凍えた誰かが、ひとときの温もりを求めて触れるような、そんな優しい仕草だった。

イカのお寿司 ( 2025/06/04(水) 23:32 )