第一章「静謐(せいひつ)」
13
 しんとした沈黙の中、京子の視線がふと動いた。


 店内の奥――ドリンクバーの前に、制服姿のカップルがいた。

 女の子が透明なカップに炭酸やジュースを何種類も混ぜながら、男の子に向かって何か言っている。

 彼は「え〜……」と困ったように笑いながらも、結局そのカップを受け取っていた。


 ――ああ。あれ、やったな。


 京子の中で、遠いはずの記憶がふっと浮かび上がった。


「……ねえ、覚えてる?」


 彼女は微笑みながら、蓮の方へ視線を向けた。


「学生のとき、私がさ。ドリンクバーでめちゃくちゃ混ぜて、

  “はい、どうぞ”って瀬川くんに飲ませたやつ」


 蓮はわずかに目を丸くしてから、こくりと頷いた。


「うん……あれ、マジでまずかった。メロンソーダとミルクティーと……あと何だっけ」


「カルピスとスープも入ってたよ、確か」


「スープ……?」

「うん、味噌汁のやつ。ちょっとだけね」


 京子は悪戯っぽく笑った。


 蓮は呆れたように、でもどこか懐かしそうに吹き出す。


「そりゃ、まずいわけだ」

「でも飲んでくれたよね、あれ。意外と律儀だった」

「齊藤さんが笑ってたから……なんか、それだけで飲めた」


 笑い合ううちに、空気がやわらかくなっていく。

 さっきまで冷えきっていたテーブルの空気が、ほんのり温かさを帯びていた。


「思い出してきたな……体育の授業のとき、縄跳びで先生にめっちゃ怒られたの、瀬川くんじゃなかったっけ?」

「跳びながら後ろに下がっていって、思い切り壁にぶつかったやつ?」

「それそれ!」


 京子が吹き出すと、蓮もつられるように小さく笑った。


「先生、なんて言ってたっけ」

「“お前は反省よりもまず安定しろ!”だよ」

「そうだ!それ!懐かしい!」

 京子は笑いすぎて、カップを揺らしてしまう。


「……なんかさ」


 ふと、京子が笑みを緩めながら言った。


「ちゃんと、覚えてるもんだね。大人になると、忘れると思ってたのに」


 蓮は少しだけ黙って、それから小さく頷いた。


「思い出す余裕がなかっただけ、かもね」


 会話が止まりそうになると、また誰かの思い出が浮かび、それが言葉になり、また笑いがこぼれる。

 それはまるで、凍った土の下から、小さな春の芽が顔を出すような、やわらかで確かな時間だった。


イカのお寿司 ( 2025/05/27(火) 02:37 )

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