03 転
そんな会話をして数週間が過ぎたある日のバイト始業前のこと。
僕はいつものようにバックヤードでエプロンを着け、売場へと出て行こうとすると、店長に声を掛けられた。
「稲葉君、ちょっといい?」
「はい、なんでしょう?」
「ちょっと相談なんだけどね・・・来週以降のシフト増やしてもいいかな?」
「シフトですか?いいですけど、なんかあったんですか?」
別にシフトならいくら増やして貰っても迷惑にはならない。学生と違って僕には時間の余裕がある。
「ん〜・・・ 隠しても仕方ないから言うけど、松本君、交通事故に遭って入院しちゃってさ」
「入院?え!?それで松本は大丈夫なんですか?」
「実は私もまだよく把握しきれて無いんだよ。明日にでもお見舞いに行こうとは思ってるけどね」
「そうですか・・・」
「まぁ、もうすぐ夏休みだから募集もかけるけど、それまでは穴埋めで色々と稲葉君にも無茶言うかも知れないけど・・・」
気まずそうな顔で店長が言葉を濁した。僕が浪人中なのを知っているからだろう。
「大丈夫ですよ。僕も可能な限りは協力しますね」
「ごめんね。助かります。用件はこれだけだから。私はシフト調整しないといけないから、今日もよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
店長と入れ違いにバックヤードから売場へと出る。
(松本が事故ねぇ・・・ 僕も気をつけないとな)
松本の心配をしながら店内を一回りしレジへと向かった。
やはりと言うか、今日も松本と雑談していたあの日と同じくらいの客入りだった。ひとつ違う点は話し相手が年上女性の先輩 柏木さんだということ。
「おはよう、稲葉君」
「おはようございます。久しぶりですよね?一緒になるの」
「そうかも。それより聞いた?松本君のこと」
「ええ、さっき聞きました。事故って入院したんですよね」
「大変だよね。松本君って結構シフト入ってたし、穴だらけかもね」
「ですよね・・・ ま、僕も全部は無理ですが、なるべく協力するつもりっすよ」
柏木さんに答えながら僕は店長のことを思った。毎日、朝早くから来て帰るのも閉店時間の終電間際まで残っている。人柄も良く、客からもスタッフからの人望も篤い穏やかな店長の苦労を思うと気の毒になる。
「店長が大変よね、来月の結婚記念日に旅行っていうのに」
「確か銀婚記念ですよね?」
柏木さんの一声で僕も思い出した。店長にその話を振ると顔をいつも以上に綻ばせ嬉しそうに予定を饒舌に話していた。普段はどちらかと言うと寡黙なイメージが強いだけに、どれだけその旅行を心待ちにしているかがよく解る。店長には何も気にせずに行ってもらいたいが松本の容態も気がかりだった。
「そうだ、松本で思い出したんですけど・・・」
僕は柏木さんにあの日の松本とのやり取りと例の客の話を振ってみた。
「・・・・・・で、あいつは僕への当てつけなんじゃないかって言うですよ〜。酷くないですか?」
「・・・・・・」
「柏木さん?」
僕からすれば、笑い話のつもりで話したはずが、柏木さんの表情は堅く険しい。
「そういうことか・・・」
神妙な面持ちで柏木さんが口を開いた。
「え?」
「そいつ!私の時は料理本ばっかり買っていくのよ!」
それを聞いた僕はドキッとした。柏木さんがドが付くほどの料理下手なことはスタッフ間では周知、そして暗黙の事実だった。
本人の口からパンドラの匣とも言えるタブーが放たれ、僕はどう返すべきか一瞬迷った。
「なるほど、あいつ相当イヤミな奴ね」
僕の心配をよそに、柏木さんは一人で話を終了させてしまった。
「いらっしゃいませ!」
変に気まずくなるのもいやだったが上手い具合に客がやって来た。
内心ほっとしつつ、僕は頭には一つの疑問が浮かんでいた。
(あの客は一体なんなんだろうか?)
浪人中の僕からは問題集を、料理下手な柏木さんからは料理本を買った。そして松本からはたしか・・・・・・