03
―東京に行く―
太一が由依からそう告げられたのは、ソメイヨシノの蕾が出てき始めた頃だった。
初めは太一もいつものつまらない冗談かと思い「へー」と気のない返事をし一度電話を切ってしまった。
『4月なったらな、東京に本格的に歌手なるために行くねん』
しかし、すぐに電話が掛かってき、同じ台詞を聞かされることでようやく冗談でなく事実なのだと思い知らされた。
歌手になる。
由依が幼い頃から頻繁に口にしていた目標。もちろん太一も知っていたし応援もしていた。しかし、そんなのはまだまだ先のことだと勝手に思い込んでいた太一にとって、由依の言葉はまさに青天の霹靂でしかなかった。
太一と由依の2人が生まれ育ったのは京都の片田舎。まさか東京へここから通う訳ではない。"東京へ行く"それは向こうに住む事を指しているのは頭のあまりよろしくない太一にでも理解するのは容易いことだった。
そして、今日この日が由依の旅立ちの日だった。
信号が赤から青へと変わり、2人を乗せた自転車がゆっくりと走り出す。
小高い丘からは、十数年ともに過ごした町並みの景色が眼下に拡がっている。
時おり、短い言葉が交わされた。由依が皮肉や冗談を言い、太一が前を向きながらそれに応える。
いつもと何も変わらない会話や笑い声、これまでは当たり前だった日常の光景。
物語のエンディングは感動的なものばかりではない。
小さくキィキィとまるで抗議みたいな少し耳に障る音を発している自転車も、今は平坦な道だが、先ほどまで急勾配な坂道を制した太一の筋肉も限界を迎えようとする頃にようやく2人は駅へとたどり着いた。