01
「はぁ…はぁ…」
「はははないた〜、てにふれないた〜、よかったとひとこと、またないた〜」
ウォークマンに合わせて熱唱する由依の歌声が背中越しに、ペダルを漕ぐ太一の耳に届いた。まだ目覚めたばかりの太陽の光が、2人乗りの自転車で坂道を登る彼らの影を描いた。
息を切らせ、重くなるペダルを漕ぎ続けている太一が吐く息が白い塊となり、3月下旬の大気中に消えていった。暦上では春。とは言えまだまだ早朝は寒さが残る。
「ちょ……もう…降りろ」
「きみはないた〜、しんしんとないた〜、うれしいとひとこと、またないた〜」
限界寸前の太一の声は、ご機嫌にメロディーを奏でる由依に届くことはなかった。太一は無理矢理冷たい空気を吸い込み、今度は叫ぶように言った。
「由依!」
「ぼくはないた〜、ただただないた〜、……ん?…なに?」
「しんどい!降りろ!」
「この坂上がり切るまでは頑張りぃな〜」
「お前鬼か!?」
そう文句を垂らしつつも、太一は健気にペダルを漕ぎ続ける己を誇りたくなっていた。と同時に、後で何かしら自分へのご褒美が無いと、危険信号を全力で発し続ける筋肉が、細胞が、果ては諸々の小器官たちまでもが反旗を翻しかねないとも考えていた。
そんな2人を嘲笑うかの様に後ろから来たトラックが追い抜いて行く。運転手は何故こんな早朝から若者が自転車で坂道と格闘しているのか不思議に思っただろう。
必死に歯を食いしばり、言葉にならない呻き声を上げたり、由依への暴言を吐いたりしつつ、太一は坂道を制覇した。
「お疲れさん!太一、すごいやん!ノーベル賞ものやで!ノーベル努力賞あげるわ!」
サドルから降り、身体をくの字に曲げ膝に手を置き、酸素を目一杯取り込んでいる太一に荷台から降り自転車を立てている由依が楽しそうに声を掛けた。
「そりゃ……どーも……」
息も絶え絶えに太一もサムズアップを返した。
「おい」
呼吸を整えた太一が右の掌を由依に差し出した。
「なに?」
「賞金でも貰おうか」
少し先に見える自販機を顎でしゃくった。
「いやや」
「いやや。ちゃうわ」
しぶしぶと独特なセンスのダウンから財布を取り出し、太一の手に銀色の硬貨を2枚置いた。
「ん?」
「私の分もやん。コーヒーでもオレンジジュースでもお汁粉でも、何でもええよ。あんたのセンスで」
「はいはい」
結局、パシりにされた太一はジャケットのポケットに手を突っ込み小走りで自販機へ向かった。
「イラッシャイマセ」と抑揚のない挨拶をする自販機に「いらっしゃいましたよ」と返事をし、硬貨を投入した。
少し悩んだ挙句、自分のホットコーヒーと、由依の分も購入した太一は、"あったか〜い"よりも熱いと形容すべき2つの缶を手に由依の元へ戻った。
自転車の側でKISSのDetroit Rock Cityを聞きながらハミングしている由依に「知らんなら、歌うなや…」と聞こえない程度の声でツッコミを入れ、小豆がパッケージの缶を渡した。
「ホンマにお汁粉買うとかないわ〜」
缶を受け取った由依は太一に批難の目を向け文句を言った。
「センス言いはったんは誰でしたっけ?」
「そんなん言う?一生結婚出来へんで」
「大きなお世話や」
「あぁごめん…、彼女すら無理やったわ!」
由依がお汁粉を飲みながら太一を指差し、カラカラと笑った。太一は返す言葉に窮しプルタブを引き起こし、そっぽを向いた。
太一はダウンの袖口を伸ばし火傷しない様に両手で熱々の缶を挟み持つ由依の姿に一瞬、絵画で見る西洋の幼い少女を重ねてしまった。
「なぁ?」
突然、話し掛けられた太一は誤魔化す様にコーヒーに口を付け缶を傾けた。