それってあなたの観想ですよね?
ひろゆきは本屋の本棚からアフリカの地図を取り出し、ぼんやりと眺めていた。
もちろん、自分が垂直な力に潰されて転生し、予備校の講師になっていることなど全く意識にはない。
この後、ひろゆきは「幻獄」に転生し、さらに何らかの力の関係(力の分解?)で、「魂」が二つに分裂し、それぞれ二つの異世界に転生するわけだが、そんな異世界転生の流れなど、今のひろゆきには何も関係がなかった。
しかし、彼がいまアフリカの地図を眺めているのは、まさしく無意識的な異世界への志向性のためである。この時代の日本には「異世界」などという観念は存在せず、異世界への志向性は全て「アフリカ」への志向性として現象していた。人々は純粋な「熱さ」の象徴としてアフリカを夢見ながら、雪の降る中、ペニスを「女」(この頃は女は単なる穴であり、異世界でもなんでもなかった)に差し込み、「アヘアへって言ってごらん?」などと囁きかけていたのである。そしたら、桃井かおりは「アヘアへ」って言ってくれたんですよ!
「鳥(バード)は身震いして、地図の細部に眼をこらした。アフリカをめぐる海は、冬の夜明けの晴れわたった空のように涙ぐましいブルーで刷られている。」
この世界では、ひろゆきは一貫して「鳥(バード)」という名で呼ばれる。それは本名ではないが、「ひろゆき」のように多世界可能世界を貫通してひろゆきの魂のみを指し示す言葉でもない。ここではひろゆきは「鳥(バード)」を演じさせられているかのようである。それは大江健三郎の『個人的な体験』を論じるための名前ではないのか?
「アフリカ大陸は、うつむいた男の頭蓋骨の形に似ている。この大頭の男は、コアラとカモノハシとカンガルーの土地オーストラリアを、憂わしげな伏眼で見ている。地図の下の隅の人工分布を示す小さなアフリカは腐蝕しはじめている死んだ頭に似ているし、交通関係を示す小さなアフリカは皮膚を剥いで毛細血管をすっかりあらわにした傷ましい頭だ。それらはともに、なまなましく暴力的な変死の印象をよびおこす。」
しかし、俺が現実にアフリカの土地を踏み、濃いサングラスをかけてアフリカの空を見上げる日は訪れるのだろうか? とひろゆきは不安な思いで考えた。どこからか、桃井かおりの「アヘアへ」という喘ぎ声が聞こえてきた。
むしろ俺は、今、この瞬間にもアフリカへ出発する可能性を決定的に失いつつあるのではないか?
桃井かおりが「アヘアへ」と喘ぐ映画『アフリカの光』については、以下のレビューをご参照ください。
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『アフリカの光』のtadaumiのレビュー・感想・評価
2023/03/17 13:08
賞賛してる人も多いが僕の率直な気持ちを書きたいと思う。
まず第1にこの作品はせっかくの田中邦衛を台無しにしてると思う。
田中邦衛といえば北の国からや、山田洋次監督の「先生」。
どちらも田中邦衛は貧しい暮らしをする人物を演じた。
大切なのはそれによって見る人に感動を与えることができた点だと思う。
「先生」の中で、競馬を実況する演技などは想像することを誘い、本当に素晴らしかったと思う。
田中邦衛のあの特徴のある話し方、風貌、はにかみ笑いなどの所作があってこそだと思う。
田中邦衛は一生懸命演じていたが、
この作品が表そうとしたのは喧嘩と女と金、そして無秩序、無意味。
これでは感動を与えることはできない。
レビューの中でも胸が温かくなるような感動を受けたと言うものなかったと思う。
昭和にあった感覚だと思うが、言葉が悪く、素行も酷く、荒くれていて、そういった中に人間の本質があって、正直で本音でぶつかり合う人間味があるというもの。
そんなものを表現しようとしたのではないかと思う。
でもそれはナルシシズムや自己陶酔の類ではないだろうか。
全く美しいものではなかったと思う。
映画自体が表現しようとするもの、見てる人に与えようとするものが稚拙なので、大げさで無駄の多い、邪魔くさい作品になっていたと思う。
作品の結末としても、賭博に加担した萩原健一が賭博で損をした漁師たちに復讐され、どうするかと思えば街から逃げて終るというもので、物語を回収するような、あるいは感動を与えたり感心を与えたり、意外性を持って締めくくるようなものではなくて、がっかりした。
ものすごいエネルギーを費やした駄作だと思う。
誰かの悪ふざけに付き合うような感覚で見るのならばいいかもしれないが、映画や田中邦衛が本来表現することのできる豊かな感動、胸が温かくなるような物を求めて見るのならば全くお勧めできない映画だ。
「アフリカの光」と題しながら、ほとんどアフリカが登場しない。
期待外れだった。
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なるほど、まあそんなところだろう。
だが、私はこの映画でアフリカという異世界を初めて知ったのだ。「光」としての異世界というものを初めて知ったのだ。
桃井かおりとショーケンのセックス(アヘアへ)しか記憶になく、田中邦衛が出てたとは、このレビューを読んで初めて知ったようなもんだが、寒い漁師町で白い息を吐きながらセックスをすること、そして女に「アヘアへって言ってごらん?」と囁きかけること、それによって初めて「アフリカの光」、今で言うなら「異世界の光」「可能世界の可能性」がうっすらと見える、そういうことを私は学んだのだ。大江健三郎の『個人的な体験』もまた、このような流れにある作品である。ひろゆきがこの世界に転生してきたのには、このような訳があったのだ(←いや、どういうワケやねん…)。
ひろゆきは、ガラスに映った自分の姿を見て「なるほどこれは『鳥(バード)』だ」と思った。後に幻獄や二つの異世界に転生するひろゆきは、あの「論破王」のひろゆきそのまんまである。だが、この世界のひろゆきは、運動家タイプの痩せた老人のようであり、それでいてすべすべして皺一つない渋色の鼻梁は嘴のように張って力強く彎曲しているし、眼球はニカワ色の硬く鋭い光を湛えて、ほとんど感情をあらわすことがない。ただ、時々驚いたように激しく見開かれるだけだ。唇はいつも引き締められて薄く硬く、頬から顎にかけては鋭く尖っている。そして、赤っぽく炎のように燃えたって空に向かっている髪。「鳥(バード)」は、十五歳の時、既にこのままの顔をしていた。
(大江健三郎って若い時は鳥みたいなシャープな顔しとったんやな…)
「その時、ガラスの奥のほの昏(ぐら)い湖のなかを、どこか確実に奇妙なところがある女が、鳥(バード)にむかって近づいてきた。肩幅のがっしりした大女で、ガラスに映っている鳥(バード)の頭の上にその顔がでるほどの背の高さだった。鳥(バード)は背後から怪物に襲撃されたような気分で、つい身がまえながらふりかえった。女はかれのすぐ前に立ちどまって、穿鑿(せんさく)するように真剣な表情で、鳥(バード)をしげしげと見つめていた。緊張した鳥(バード)もまた、女を見かえした。一瞬あと、鳥(バード)は女の眼の中の硬く尖った緊急なものが憂わしげな無関心の水に洗いさらされるのを見た。女は鳥(バード)にたいして、それがどのような性質のものであるかは判然としないにしてもともかく一種の利害関係のきずなを発見しかけていたのだが、不意に、鳥(バード)が、そのきずなにふさわしい対象でないことに気づいたのだ。その時になって鳥(バード)の方でも、ふさふさとカールした豊かすぎるほどの髪につつまれたフラ・アンジェリコの受胎告知図の天使みたいな顔の異常、とくに上唇に剃りのこされた数本の髭を見出した。それはすさまじい厚化粧の壁をつらぬいてとびだし、たよりなげに震えている。」
「やあ!」大女は、地球の砂漠化を目指すプリキュアの敵対勢力「砂漠の使徒」の王デューン(声:緑川光)にそっくりな声で鳥(バード)に声をかけた。というか、こいつ緑川光やないか!
「やあ!」鳥(バード)は大女にではなく、この光景を引用したり描写したりして、メタレベルから「こいつ緑川光やないか!」などとツッコミを入れている私に挨拶をした。
私の周囲には、何か形而上学的な存在が盛んに飛び回っていた。まるでカンディンスキーの抽象画の実写版(3D版)である。私は、鳥(バード)の中にあるひろゆきの魂を見つめながら、非常に抽象的なオナニーをした。形而上学的なオナニーの対象が必ずしも形而上学的である必要はない。にもかかわらず、私は、鳥(バード)の中にあるひろゆきの魂、その核(コア)であるところの何かしらジェンダー的な振動を続ける中村雄二郎的な「弦」を見つめながら、非常にストレートに、自らの形而上学的な男根、血も流れず、幅も長さもない男根をひたすらこすり続けていた。
「男娼がそのままハイヒールの踵(かかと)で半回転してゆったりと歩み去るのをちょっと見送り、その逆の方向に鳥(バード)は歩きだした。
あいつは、飾り窓に自分を映してみながら誰かを待ちうけている様子のおれを、性倒錯者とまちがえたわけだ、と鳥(バード)は考えた。それは不名誉な誤解だが、ふりかえったかれを見て、男娼が、ただちにその誤解に気がついた以上、かれの名誉は回復されたのである。そこで鳥(バード)は、いまその滑稽感だけを楽しんでいた。やあ!というのはあの際じつにしっくりした挨拶ではないか。あいつは相当に知的な人間にちがいない。鳥(バード)は大女に扮した若者に突発的な友情を感じた。」
鳥(バード)は、彼についていってベッドで二人仲良く寝そべって話をしている自分を想像した。
「おれまで裸になっているのはあの男を窮屈な気持ちから救うためだ。おれはいま妻が出産しつつあるということをうちあけるだろう。また、おれがずいぶん前からアフリカを旅行したいと考えており、その旅行のあと《アフリカの空》という冒険記を出版することが、夢のまた夢であることを話すだろう。そして、いったん妻が出産し、おれが家族の檻(おり)に閉じこめられたなら(現に結婚以来、おれはその檻のなかにいるのだが、まだ檻の蓋はひらいているようだった。しかし生まれてくる子供がその蓋をガチリとおろしてしまうわけだ)おれにはもうアフリカへひとりで旅に出ることなどまったく不可能になるということを話すだろう。あの男は、おれを脅かしているノイローゼの種子のひと粒ひと粒を丹念にひろいあつめて理解してくれるにちがいない。なぜなら、自分の内部の歪みに忠実であろうとして、ついには女装して性倒錯の仲間を街にさがしもとめるにいたった、そういう若者は、無意識の深い奥底に根をはる不安や恐怖感に本当に鋭敏な眼と耳と心とをもった種族であろうからだ。」
(「内部の歪み」ねえ…)
『個人的な体験』が書かれた時代には、まだこのようなことは「性倒錯」と呼ばれていたのだから、そこからそんな観念が出てくるのも仕方がないのだが、パソコンの前で枯れ木のようになったペニスを握りしめて死んだ後、「異世界美少女受肉おじさん(ファ美肉おじさん)」を経ていまや「形而上学的戦闘美少女」すなわち斎藤環風にいえば「形而上学的ファリック・ガール」(形而上学的なペニスを持つ少女)となった私にとって、もはや大江健三郎は●●●が●んだ●●のような●●である(否定神学)。