第八話 オビディの場合
よしおの場合
朝。まだ小学生の花正よしおはちんちんをいじっていたので、母・妙子から叱られた。白いかすが出るので、ちんちんの皮の先をつまみ、中を密閉状態にしておいてからそこにおしっこを少しだけ出し、それで中を洗浄する。あとはそれをティシュに出す。妙子はそれを見て肺に砂鉄を入れられたような気分になり、子供が吐くまで叱るのだ。

「飛び出せウンコ!」

よしおはさっき吐くほど叱られたことなど忘れて、便所で叫んだ。

「飛び出ろウンコ!!」

よしおは便器の底でとぐろを巻いている黄色い物質をしばらくじっと見つめていたが、体がブルッと震えて妙に神経が痒かったので水で流した。内臓と内臓の間にちょっとした透き間ができたような感覚を抱えてコタツに戻ると、皇太子がジョギングで皇居を一周する様子がテレビで流れていた。

「この人誰?」

「王子様や。ええから、はよ食べて学校行きなさい」

よしおは熱いココアを少しずつ胃に流し込んだ。朝からカスカスのパンを食べるのはつらいので、ココアにひたしながら食べた。学校から帰ってきて食べるパンはあんなに柔らかいのに、学校に行く前に食べるパンはどうしてこんなにカスカスなんだろう、とよしおは思った。

作文の時間はよしおが最も得意とする時間である。でも、今日は自由に何でも書いていいと言われたので少し困ってしまった。「別に書きたいことなんかないよ。ウ〜ン」クラスのみんなも同じように困っているようだった。

「王子様はお腹が空いていました。王子様は何か食べたいと思いました。王子様は食べ物のある場所に近づきたいと思いました。王子様は食べ物のある場所を知りたいと思いました。王子様は家来に食べ物のある場所を教えて欲しいと思いました。王子様は家来が王子様を好まないと思いました。もし家来が食べ物のある場所を王子様に言わないならば、王子様は家来を殴ると、王子様は家来に思わせたいと思いました。王子様は家来に近づきたいと思いました。家来は深い溝の近くにいました。もし家来が食べ物のある場所を王子様に言わなければ、王子様は家来を殴ると、王子様は家来に言いました。王子様は家来が王子様をだますと思いました。王子様は家来を殴りました。家来は死にました。家来は食べ物のある場所を王子様に言わないだろうと王子様は思いました。王子様は食べ物のある場所を知らないと王子様は思いました。王子様は食べ物の近くにいないと王子様は思いました。王子様はお腹が空いたと王子様は思いました。」

昼。給食のパンがカスカスなのは、これは気持ちの問題ではないとよしおは直観した。もちろん、こうやって言葉に表せる仕方ではなく、口の開け方や目の見開き方で。でも、気持ちの問題もだいぶある。昼休みの音楽を聞くと、かすかに冷や汗をかくような気がするのは何故だろう。

午後。白い顔の少年が遅れて登校してきた。不登校の子だ。よしおはこの子とクラスメイトになってはじめて「不登校」という言葉を知った。お母さんが不登校はよくないことだと言っていた。でも、よしおには「不登校」なんて思いつきもしなかったので、よしおはこの子は頭がいいと思った。

白い顔の少年はよしおの方を向いて少し笑ったように見えた。よしおはどう対応していいかわからず、目をそらしてしまった。教室に何かよくわからない空気が流れた。少年が学校にこないのはイジメられているからだ、といううわさだった。何故、イジメられているんだろう、イジメられているようには見えないな、とよしおは思った。イジメの原因など無限にあるし、無限に作ることができる。ノブオ(みんなからは「ビビ夫」と呼ばれている)がイジメられている理由など、みんなもう忘れていた。忘れているということさえ忘れられて、ただもう習慣から、ノブオは日常的な暴力をふるわれ続けていたのであった。

唯一、ノブオの味方をしている少年がいた。忠彦である。彼は小学生とは思えないくらいに公平なものの考え方をする少年だった。よしおは忠彦がいるというただそれだけの理由でこのクラスにいてよかったと思うのであった。彼に比べれば、他の少年はほとんど動物と同じだ。後に中学や高校の教科書で「人間」という言葉を目にするたびに、よしおはまず忠彦を思い浮かべることとなる。しかし、その忠彦にも限界はあった。ノブオは忠彦の目の届かぬところでイジメられており、「忠彦にチクッたら殺す」と脅されていた。忠彦は公平ではあったが、他人をすぐに信用してしまう鈍感なところがあり、悪意に対する認識能力に欠けていた。ただ認識することしかできないよしおには、それが歯痒かった。後によしおは単純な人間になることを望むようになるが、この頃からすでに様々な人間の「関係」が見えているだけの自分、それにいちいち感想を抱くだけの自分に対する嫌悪を育てていたといえよう。


赤い日がいかにも貧相な古い木造の下宿屋に差し込む。大学生になった花正よしおがテレビを見ながらこたつに入ってインスタントラーメンの汁を啜っていると、窓の外、空の遠くに小さな点があらわれ、次の瞬間にはそれは何か大きな鉄の玉のようなものになり、よしおの窓に接近していた。

鉄の玉はガラスを粉々に砕き、窓枠を砕き、壁を砕いて畳を砕いた。壁に貼ってあったウルトラセブンのポスターも何かの賞状も砕いた。スピーカー付きのギターもキングジョーのフィギュアも砕かれ、宙を舞っている。想い出のあるものもないものも全部砕かれた。

よしおはこれらすべてを極めてハッキリと認識していた。そして瞬時に廊下に飛び退き、自分の部屋が砕かれていく様を極めてハッキリと認識しながらまるでエビのように、あるいは丁度ボートをこぐような形で、後ろに飛び退いたのであった。

黒い玉はなおもあらゆるものを砕きつつ接近してくるので、よしおは今度は横に飛び、階段を転がるように落ちていく。玉は下宿屋の二階部分を破壊し、慣性で隣の家の二階を破壊し、よしおの視界からいったん消える。砂煙が立ちこめ、湿っ気た木の砕けた粒子がやけに甘く鼻を衝いた。

隣の尼さんとその愛人の男性が砕かれ、落ちてきた木や土やタンスや電気製品の塊によって、尼さんとついに心の通うことがなかった犬も砕かれた。

若宮通りに投げ出されたよしおは、アスファルトを舐めるように手をついてグイン!と立ち上がると、そのまま全力疾走で丁字湯の前をすり抜け、若宮神社まで一直線に突っ走った。よしおの顔は黒い陰になっていてよくわからない。男なのか女なのかさえわからない。よしおはただ走っていた。驚くほど迅速に行動し、驚くほど正確に認識していた。神社の中まで逃げたよしおはさすがに肩で息をしていたが、黒い玉が追ってこないことがわかると安堵したようにその場に三角座りになった。背中がピリピリする。神経が死んで黒い物質に変化するのだった。

よしおは美の人であった。よしおは性欲と美の間でいつもイライラしていた。そして街をうろつきまわり、常に女を視姦していた。性欲として何かがずーっと盛り上がってくる瞬間、そして稲妻のような美の瞬間もあった。だが、たいていはそれ以外であった。そしてそれ以外の方が断然、面白いのである。性欲も美も情報量はゼロであった。

「あんた、ストーカーなんやって?」

大学に入ってすぐの頃、よしおは見知らぬ女にそう声をかけられた。

「…?」

「あんた、よしおやろ。あたし、ユミコの友達の瑠璃子」

瑠璃子と名乗るその女は、おそろしく油っ気の多い女であった。そして女性ホルモンが直接気化したようなニオイを放っていた。

「ユミコって、誰?」

瑠璃子はア然として

「シラ切るつもりなん。出るとこ出たってええねんで」

「いや、ホントに知らないんで…」

よしおにはまったく身に覚えのない話であった。自分は確かに視姦はする。しかし、ストーカーと言われるほど一人の女性をつけ回したことはないつもりだった。

「警察行こ」瑠璃子はよしおの腕をつかんだ。

「何すんねんな」

「そらこっちのセリフや!アンタのせいでユミコは変な幻覚まで見えるようになってんで」

「被害妄想や」

「とにかく、ええ加減にせんかったら、こっちにも考えがあるから」

瑠璃子はそう言って去って行った。真夏の三条大橋、日光が強すぎて、世界がかえって暗く見えた日の午後であった。

それ以来、よしおは視姦行為を少し控えていたが、瑠璃子側からそれ以上何の働きかけもなかったので、また再開した。

よしおは美の人である。それは、この世界には美などというものは存在しないのだということをひとつひとつ確かめねば気が済まないという意味である。「これも違う、これも違う…」つまりよしおは虱潰しに当たっているのであった。

もちろん、時折不意打ちのように美の瞬間が訪れた。しかし、よしおはかたくなにそれが美であることを認めようとはしなかった。何故なら、それは絶対者ではなかったからである。

よしおがまだ中学生の頃、それを見てしまった。絶対者はヤマハのスクーターに乗っかっていた。絶対者は白いミニスカートと若草色のセーターを身につけていた。中学生のよしおには、絶対的なものとは、赤いヘルメットの中にある美しいものと白いミニスカートの奥に潜んだ黒い物質との関係性だと思われた。男性とは、その関係性を解くプロセスである。だが、絶対者は転倒し、後ろからきたダンプカーによって赤いヘルメットはパーン!と破裂した。よしおにとって、美とは絶対者でなければならず、絶対者とは炸裂した美でなければならなかった。そして絶対者とは、以後ただゲームの中でのみ反復することのできるものであった。

「中学の頃の人間関係なんて結局なんでもなかったなぁ」と高校生のよしおはつぶやいた。大学生のよしおはこの発言を高校を含む形で更新した。現在のよしおは大学についてこれを更新したばかりである。つまり、人間関係なんて結局、なんでもないということだ。それがわかっていながら、何故いつまでもそれにしがみついているのか。

よしおは美の人である。美の追求者であり美意識の人であった。他の誰が認めずとも、美とは絶対的に美的であり、孤立を怖れる理由などどこにもないはずだった。だが、実際に生きてみると肋骨の間を冷たい風が流れ、真夏の太陽のもと花壇に腰掛けたりすると、とたんにおっかなくてせつなくて、ひとりで死ぬのは勘弁して下さい、などと神に祈るのであった。「オレは女に近づける!」よしおは何度も繰り返した。


そんななか、結局、向こうから近づいてきたのが黒い鉄球だったのである。

よしおは全てを諦めて粉々に破壊された自分の下宿に戻り、道路の上で静止していた黒い鉄球の中に、自ら入り込んだ。

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アメリカン・クルーソー ( 2024/02/21(水) 00:19 )