第七話 幻獄ふれあい街歩き
昆虫都市「ギドロニア(Gidronia)」
喧嘩掲示板『晒しの楽園』の名無し(モブ喧嘩師)が転生したギドロンの民で、喧嘩城のスパイである「虫ケラ」。一人暮らしの彼は部屋に一人で居ると転生前の人生を思い出して泣いてしまうので、ギドロニアの街を散歩することにした。どうせ散歩しても思い出すに決まってるが、少なくとも他者の目があれば泣かずに済む。


虫ケラは自分のことを三人称で語る。何故、三人称で話すのか。それは自分にもわからない。ただ、そういうふうにすると心が落ち着くんだ。

壁の軋みとか、自転車のブレーキ音とか、世界には心を突き刺すものが多すぎる。ひとを殴ったり、無視したり、地雷を仕掛けたりもするし、とにかく自分を嘲笑したヤツの顔を思い出すと、自分をペンで突き刺したくなってくる。転生しようが、異世界で暮らそうが、それは変わらない。

虫ケラは何が大事なのかがわかっている人間であった。

何が大事で何が大事でないのか。世界の暗号を解いてしまった人間には、それは簡単に見分けられた。その鍵は意外にも近くの山に捨てられてました。

いつだったかもう忘れたが、虫ケラはその日も山の方に向かってブラブラ歩いていた。玉子の日なので行列ができている巨大な郊外型スーパー・平和堂の側を通り過ぎて、工事中の橋を渡る。この橋の手前までは平和堂ができたせいで歩道が整備され、赤と白のタイルが地面に埋め込まれていた。

橋の向こう側も徐々に雰囲気を変えつつはあるが、基本的にはまだ農村で、古い農具などを錆つかせてる家なんかがある。しかし、そこを通り過ぎて山をのぼると、その中腹に切り開かれたなだらかな斜面にビッシリ住宅街が並んでいて、よくこれだけ人間がいるものだと時々感心させられるのだ。

平和堂を南に下るとちょっとした工場地帯があって、そこからやや古い住宅街が北に伸び、そのただ中に突然平和堂ができて道が新しくなった。その北側に古い農村地帯があって、虫ケラが歩いている道はそれらを貫いて北の山々へと向かっている。道の先には先程の新興住宅街。とはいっても、できはじめたのはすでに昭和40年代だったか。いまだに山を少しずつ削り、北へとおのれを拡張している。

その山の反対側の斜面には整然と区画された墓地があって、どの墓も同じ形をしているので虫ケラには気持ち悪いのであった。時々家族連れや老人をみかけるが訪れる人間はほとんどなく、自分も最終的にはあそこに行くのかと思うと虫ケラは暗い気持ちになり、少し身震いしてしゃっくりが出た。結果としてはほとんど笑っていたことになる。

墓地と住宅街を見比べると生きる気力を失うが、歩いていると何故かエネルギーは充填されていくようであった。動いているというのは何とすばらしいことか。石ころには同情を禁じ得ない。

虫ケラは石ころのそばに落ちていたプルタブに心を動かされた。

工学的な工夫(ステイオンタブ)により、もはやプルタブが山や川に捨てられることはない。昔の不道徳の残骸がまるで遺跡のように、古代の土器の欠片みたいにそこに埋め込まれていた。もちろん、まわりには新しい不道徳の残骸が、つまり缶カン自体がいたるところに転がっている。

「土というのは…なんなんだろうな」

虫ケラはそうつぶやいて、プルタブとタバコの吸い殻が無数に混じった黒い土の上を歩いていく。それは山の中腹に行こうが、山の頂上に登ろうが変わらない日本の黒い土であった。山の向こう側にはいわば絶対的な山だけのゾーンが広がっているが、そこの土も同じである。山腹を歩けば自動車もあるし火災報知器まで捨てられており、どうやって捨てるのか、その英知にはただただ感心させられる。どんなに深く分け入っても必ずコーラ缶、ポテトチップスの袋、ホカ弁の残骸に行き当たり、エロ本の収穫もまれではない。これだけ小汚くて卑小であればもう満足だろう。誰しもそう思うだろうが、それでもすべては中途半端であり、一切の文学的帰結を拒んでいた。

日本のつまらない土とつまらない家々、そして日本のつまらない集団墓地。そこを突っ切りながら虫ケラは中途半端にエネルギーを削り、また中途半端にエネルギーを獲得していたのだ。

「やるじゃない!」

虫ケラは小汚い土の上で自分の方へ折れ曲がった。

さて、山の中で出会ったその書物の表紙では若い女性がこちら側に向かって微笑んでおり、股を拡げ、パンティの脇から何かさも大事なものを見せているといった風情でその「何か」をのぞかせていた。

しかし、肝心のその部分には「裏ビデオ&DVDガイド 素人美少女・援交」という文字がかぶせられ、つまりその「何か」は何者かに切り取られていた。

虫ケラはその切り取られ具合をじっと見ていた。

我に返り、「裏ビデオ&DVDガイド 素人美少女・援交」の記事に当たってみようと思い書物を開いた。パッと開いたその先には「先日、ある30代童貞が言っていた」とあり、その男のこんな言葉が紹介されていた。

「ロリコンとは決してあきらめない大人たちなんですよ。子供の頃は誰しも少女好きだった。しかし大人になるにつれてあきらめていく。『好きな娘は同世代であるべき』といった間違った観念に流されるがまま……」(ダテクニヒコ「少女愛部」『別冊ブブカ』2003年12月号139頁)

この直後に筆者は「正当化しているの?自分が未だ童貞であることを正当化しているつもりなの?」と突っ込んでいるが、「チェリーの戯言はさておき、ロリコンとはあきらめない大人であるというのはあながち間違いではない」と認めている。

「モラルに反しようが犯罪を犯そうが、少女&幼女嗜好を決してあきらめない屈強な精神力をもつ大人たち」

そうなんですね。

虫ケラは別にロリコンというわけではなかった。だが、ここに動かしがたい事実としてひとつの明確なパースペクチブが与えられてしまっている。世界はもはや先程までとはガラリと様相を変え、むしろつまならい土が落ち葉を支え、落ち葉が書物を、書物が言葉を支えてその言葉が人生を規定していた。

つまらない土から幼女まで、言葉を貫通し尻の肉の丸い輪郭を貫通する連続した実在がここにあった。それが例えば、銭湯における次のような出会い、つまり小学生なのに腰のくびれた女の子が男湯に入ってくるというような、そのような出会いに結晶するとしたらどうか。そのくびれは尻の曲線に連続し、ロリコンではないのにあたかもロリコンであるかのような、そんな人生が開けてこないだろうか。


大自然は冬であった。


アメリカン・クルーソー ( 2024/01/13(土) 15:59 )