情報都市「イサライ (Isarai)」
彼の足元には陰毛が生えていた。黄色い砂漠から少しずつ姿を現わしたアスファルトのこまかな凸凹が刻む陰影が、すべてユラユラ揺れる陰毛であった。アスファルトの道路は見慣れぬ街へ続いていた。
冬の冷たい風が吹くたびに、陰毛は揺れる。こんな時はあったかいオシッコが一番だ。誰でもいい、身近な人のオシッコを体に浴びてみれば、きっと鳥肌が立つだろう。あったかくて、あったかくて、かえってさみしくなってしまうかもしれない。
彼はさっき自分の世界から出てきたところである。精液のかわりに、オシッコを漏らし、立ち尽くす彼。冷たい風で、オシッコはすでに何か嫌なものに変わっているはずだ。だが、彼の表情を見れば、彼がすでにそれを肯定しているということがわかる。
なんでもいい。何かただれた生を送っていると、それに付きまとっていた砂っぽいいらだちと焦燥が突然、あらゆるもののさわやかな肯定に変貌する瞬間というものがある。そして、その肯定力がどんどん広がり、これも、これも、これも、これも…という具合にどんどん広がることになる。
例えば絵を描いているとすると、どんどん絵の具を分厚く重ねてしまうことがあり、まずここに我々はいらだちを感じる。何故終わらないんだ、終わってくれないんだ、線はどこに?という焦燥で横隔膜が熱くなるのである。ところが、ある時それがクルリと肯定される瞬間が訪れる。その瞬間を促すのは背中に鳥肌をたてる春の風かもしれないし、新鮮なコントラストを示す絵の具の奇妙な配合かもしれない。とにかく、一瞬にしてすべてが肯定へと向かう。ただし、それは論理的な肯定ではないので、実際にすべてが肯定されてしまうわけではない。それらの可能性が、ある一定の時間的進行の内で肯定されるのである。こうして、それは「力」として現象し、次々に観念の連鎖をたどって事をなしてゆく。だが、そのうち彼は、そこにもやはり終りはないということにいつかは気付かねばならず、そして終りそのものを見ることなく歩き出さねばならないのだ(それこそがひとつの肯定力の実質的な終りなのである)。
その時、彼はどこへ向かうのか。仮に暴力団の事務所に向かうと仮定しよう。するとこの仮定ひとつで一挙に物語の地平が開けてくるのがわかる。例えば、彼は以前、ヤクザに何もかも失ってしまうほどの被害を受け、復讐のため単身、殴り込みをかけに行くつもりなのかもしれない。あるいは、単純に親戚か親がヤクザで、実家に帰るところなのかもしれない。しかし、今は単に歩いているだけの彼の身体や脳髄のどこを探しても、我々の仮定を支持するに足るものはみつからないだろう。
にもかかわらず、彼は今、実際に暴力団の事務所の方向に向かって歩きだしたのである。彼は理由もなくただその方向に歩いているのだろうか。あるいは、ウンコをしながら世に満ちた保守的政体の必然に思いをめぐらせるように、思考と行動が連関しておらず、そのために彼の表情がいかなる解釈も許さないのであろうか。
幻獄随一の勢力を誇る暴力団「グリムサイレンス (Grim Silence)」の事務所にやってきたメルトダウンは、
「ヴォーテックスディソルブ!」(Vortex Dissolve)
と叫んだ。彼の「ホトケ」の名前である。すると、分厚い鋼鉄製のドアがあっという間に融けて熱いドロドロの液体になってしまった。
幻獄にも暴力団やマフィアが存在する。ブラトヴォ・ストゥールム (Bratvo Sturum) 、シャイロク・プロルメト (Shaylok Promet) 、ウラリン・ブラット (Uralin Brat) 、ヴォルヤーグ・クラシャ (Volyarg Klash)、カズノヴ・ブリッツ (Kaznov Blitz)、シュヴェップト・タガンカ (Shvetpt Taganka) 、モロズ・オプーチ (Moroz Opuch) 、ニャクレフ・コップネル (Nyaklev Kopnel)などのロシア喧嘩界からの転生者によって形成された地方マフィア。クラ・クラレンシー (Kra Clarence) 、クアラ・スコーピオンズ (Kuala Scorpions) 、ラワイ・シャドウキンズ (Rawai Shadowkins)など東南アジア系の喧嘩師によって形成された地方マフィア。レジェンドブレイズ (Legend Blaze)、ナイトジャガー (Night Jaguar)、インフェルノアイオン (Inferno Ion)、デモンハーモニー (Demon Harmony)、ブラックサーペント (Black Serpent)、オメガヴァイパー (Omega Viper)などの新宿歌舞伎町出身者による情報系ヤクザである。
喧嘩師「グリムリーパー」を組長とする「グリムサイレンス (Grim Silence)」もまた、歌舞伎町からの転生者(主に武闘派のホスト)を中心とした情報工学ヤクザであった。
「なんだテメェは!」
オラオラ系ホスト「早乙女蓮」がメルトダウンに食って掛かるが、一瞬にして溶解した。
「なっ!?」
王子様系ホスト「白石咲夜」のヘルプを担当している体育会系の「龍我」が驚愕の表情でメルトを迎える。同じく咲夜のヘルプ担当、小悪魔系の「圓城葵(えんじょう あおい)」は
「ふ〜ん、ホトケ使いか…」
とつぶやき、彼のホトケ「チャオスコラプサー (Chaos Collapser)」を出そうとしたが、その態勢に入った瞬間、ドロドロに溶解した。
「まて!」
ちょうど遊びに来ていたシブがき隊の元メンバー「布川敏和」が間に入る。
「要求を聞こうじゃないか…そもそもお前はダレッ!?」
全部を言い終わらないうちにフッくんはドロドロにメルトダウンした。
「グリムを出せ」メルトダウンは低い声で龍我に話しかけた。
『誰だお前は』
メルトが振り向くと、入り口に「カインの刻印」で悪魔化した「グリムリーパー」が立っていた。
「ふむ…カインの刻印か。負けた」
そう言うと、メルトダウンはどっかりとその場に座り込んだ。「カインの刻印」は相手の攻撃を七倍にして返す能力である。絶対者ヤハウェイによって、直接グリムの額に刻み付けられていた。
『…やれ』
悪魔グリムがそう言うと、龍我と白石咲夜、そして「鳳条夕妃」はメルトダウンに想像を絶する暴行を加えはじめた。
『殺すんじゃねえぞ』
メルトダウンは「雑魚の癖に調子乗ってすみませんでした!精神共々精進します!Cランクに格下げしといてください!」などと意味不明なことを叫びながら、何故か爆笑していた。