第一章「微熱」
04
 ショッピングモールの館内は、休日の午後らしく家族連れや学生でごった返していた。吹き抜けの広いエスカレーターを上がった先、雑貨屋の店先で陽子はスマホ片手に嬉々としてアクセサリーを眺めている。


「ねえ、これどう思う?パールのイヤカフ、可愛くない?」

「うん、似合うと思うよ」


 私は返しながらも、どこか上の空だった。
 あのカフェでの会話が、まだ尾を引いているのかもしれない。インスタのDM、復縁、恋ってそういうもの。
 その言葉の一つひとつが、胸の奥でまだ引っかかっている。


 “恋って、そういうもの?”


 その感覚が、やっぱり私にはまだよくわからない。
 わかろうとしていないだけなのかもしれないけれど。


「莉奈、ちょっと待ってて。あっちの服屋、気になるのあった!」


 そう言って陽子が人混みの向こうへ消えていった。
 私は仕方なくその場に残り、エスカレーターの手すりにもたれて待つことにした。

 そのときだった。


「――わっ!」


 小さな子どもが二人、けらけらと笑いながら目の前を駆け抜けていく。
 その流れに反応が遅れた私は、とっさに体をよけようとして、バランスを崩してしまった。


 カラン、と持っていた買い物袋が床に落ちる音。
 視界がぐらつく。
 ああ、転ぶ、と思ったその瞬間。


 誰かの腕が、私の体をしっかりと受け止めた。


「大丈夫?」


 低くて、静かな声だった。
 抱き寄せられるようにして支えられたその胸の中で、私は思わず息をのんだ。


「すみません、子どもが急に……ありがとうございます」


 私は慌てて体勢を整えながら礼を言った。


「いえ、気を付けて。それじゃあ」

 男の人はぶっきらぼうに言い残すと、踵を返して歩き出した。
 黒に近いチャコールグレーのTシャツに、ラフに履いたベージュのパンツ。
 あのときの“白T”とは違う服装なのに、私はすぐにわかった。


 ――同じ人だ。


「悠人!お前、先行くなって!」


 少し後ろから、声が飛んだ。
 振り向くと、同年代くらいの男の人がひとり、手に買い物袋を提げて追いかけてくる。

 悠人――。

 その名前を聞いた瞬間、全身の毛穴が一斉に開いたような感覚があった。
 記憶の奥にしまっていた名前。
 それが、いま唐突に現実のものとして響いた。

 彼の言葉に振り返りもせず、その“彼”は人混みの中に消えていった。
 私の前を通りすぎていった恐らく彼の友人だけが、一瞬こちらに視線を向けて、「すみません」と小さく頭を下げた。


 私はその場に立ち尽くしていた。
 さっきまで何を買おうとしていたのかも、陽子がどこへ行ったのかも、すべてが遠いことのように思えた。


「莉奈ー!もうどこ行ったのかと思った!」


 陽子が駆け寄ってくる。
 けれど、私はその声が聞こえていても、うまく振り向けなかった。


 さっきまで熱を持っていた心臓が、今は少しだけひんやりとしている。
 懐かしさと、戸惑いと、ほんのわずかなショックを残して。

■筆者メッセージ
今年の夏も何もしないで終わりそうだなぁ。
黒瀬リュウ ( 2025/07/26(土) 18:07 )