01
彼女はリビングのソファーの上で、ゆっくり目を覚ました。
ふと周りを見てみると、16の娘が母親の方に頭を預けて気持ちよさそうに眠っている。
話している最中に眠ってしまったのかと、今の状況を思い出した彼女は、自分と娘に掛けられていた薄い毛布があることに気付いた。
周りを見てみると、後ろのキッチンの方で何やら冷蔵庫を物色している物音が聞こえ、そこの方に目を向けると、ベッドから目を覚ましてきた旦那が、缶ビールを一つ取り出し、プシュッと音を立てながら、そのプルタブを開けているところだった。
「パパ、こないだ健康診断、肝臓があんまり良くなかったって言われてなかったっけ?」
缶に口をつけようとした矢先、リビングの方から聞こえてきた声に彼女の旦那は驚いて、体をすくませて、目を見開いてこちらを見てきた。
「なんだ、起きてたの。お願い、一杯だけ!」
「もう、お医者さんに怒られても知らないからね?」
旦那は悪い悪いと言いながらも悪びれる様子もなく、一口飲むとくぅっと幸せを噛み締める声を漏らしていた。
「雷の音で目が覚めちゃってさ。そしたらママがいないもんだから、こっち来てみたら陽世と二人でソファーで寝てたからビックリしたよ」
ビールを片手に彼女の隣に座った彼の空いた手を握ると、向こうはフフッと笑ってこちらを見てくれた。
「何か怖い夢でも見た?」
「えっ…?」
「寝ている時、涙が流れてたから」
ふと手を離して、自分の目元に手をやると、確か少し濡れたような跡がある。
涙が通って乾いた後の肌の乾燥感も残っていた。
思い出話をしている間に、知らず知らずの間に感傷的になってしまっていたのだろうか。
彼女はううんと首を振ったが、肝心の夢の内容には触れず、はぐらかそうとした。
すると旦那は全てを分かっているかのような優しい手で彼女の頭を撫でた。
「そういえばさ、付き合う前にママが大切にしてて、そのうち無くしちゃった懐中時計あったでしょ?」
「えっ、あっ、うん」
「あれ、こないだ部屋の掃除してたときに押し入れの奥にあった箱の中から出てきたよ」
「えっ、本当…?!ありがとう。よく覚えてたね…」
彼とはもう長いこと同じ時間を過ごしている。
そんな中で出会いたての頃のことをよく覚えていたものだと、彼女は感心していた。
「そりゃ覚えてるさ。懐中時計の時間が止まってるから、動かしてあげようかって僕が言ったら、ママは『大切な人が巻いてくれた分だから、このままでいいんだ』って聞かなかったんだから」
「えっ、私、そんなこと言ったっけ…」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女に、旦那は優しく頭にポンと手を置いて彼女を見つめた。
「正直、そんときすっごい悔しかったけど、ママがその人を想う以上に、僕の事を想ってくれるように頑張ろうって、その時そう思えたんだ」
「そうだったんだ…、なんかごめん」
「いやいや、全然謝らなくていいから。はい、どうぞ」
そう言われ彼の懐から取り出された懐中時計を、彼女は約数十年ぶりに手にした。
久しぶりに手に持った感触は、思っていたよりも少しずっしりと重みを感じた。
懐かしそうにそれを眺めていると、旦那があっと何かを思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、その懐中時計、蓋の裏に薄くだけど文字が彫られてるの気付いてる?」
「そうなの?気付かなかった…」
懐中時計を開いて、中を見ると、確かに蓋の裏側に何やら文字が刻まれているような跡が見える。
だがそれはあまりにも薄く、また見慣れない言語で書かれていたため、何が記されているのか読み取るのは容易なことではなかった。
「それ、なんて書いてあるか気になって、同僚の語学が堪能なやつに見てもらったんだよ。そしたらイタリア語で"ti auguro felicità"って書いてるんだって」
「どういう意味…?」
「『あなたが幸せでありますように』だってさ」
伝えたかったことをようやく伝えることが出来て嬉しかったのか、彼は満足そうにビールをまた一口喉奥に流し込んだ。
彼女は懐中時計の裏蓋に刻まれた文字を、意味を噛み締めながら見ていると、カチカチと秒針が動いている音が聞こえたような気がして、盤面に目を向けると誰かが巻いたのか、それとも何かの弾みでまた動き出したのか分からないが、秒針が進んでいる様子が目についた。
彼女は懐中時計の蓋をゆっくり閉じると、愛する旦那にぎゅっと抱きついた。
最初は驚いていた彼だったが、缶ビールをテーブルの上に置くと、彼女と、そして彼女の隣に眠る愛しい娘にまで腕を伸ばし、二人まとめて抱きしめた。
"幸せでありますように"。
その願いをしっかりと受け取ったかのように、抱き締められる腕の中で、美玖は最大限の愛を噛み締めていた。