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彼の家を後にし、歩いて駅まで向かうと、少しずつ朝日が遠い地平線から登ってきているようで、空が少し薄明るくなってきているのが分かった。
始発までの時間を確認しようと、昨夜彼から貰った懐中時計を早速開いて見てみる。
時計の秒針は彼が巻いてくれた瞬間からカチカチと音を立てながら進んでいた。
始発の電車が到着しそれに乗り込むと、人の気配が全くない車両の中で、美玖は対面式のゆったりとした座席に腰を下ろした。
彼が住むこの街を最後にこの目に焼き付けておこう。
そう思いながら動き出した車両から見える窓の外を眺めていた時、ふと見覚えのあるシルエットが、遠い丘の上に一つポツンと立っていることに気づいた。
目を凝らして見てみると、そこには大きなロングコートを身に纏い、いつものように手入れもまともにしていないボサボサな髪の毛をした須崎が立ち尽くしていた。
「先生…!」
車両の窓を開け、思わず身を乗り出しそうになったが、走り行く電車はあっという間に彼の前を通過し、少しずつ彼の姿が遠ざかってゆく。
須崎はそれを追いかけることもなく、ただ、ただ車両を見つめ、そこに立っていた。
ただの思い出ではなく、確かにそこに彼がいた。
彼と共に過ごした時間が、私が彼を愛した時間が、確かにそこに存在していた。
須崎の立ち姿だけで、それを感じることが出来た美玖は止めどなく溢れ出てくる涙を抑え切ることが出来ず、彼の姿が見えなくなってしまったその後も、彼女以外乗客が誰もいない車両の中で、両手で顔を塞ぎ、声を出して咽び泣いた。