最終章
04
 タクシーの中は、会話が全くと言っていいほど生まれなかった。

 信じられないぐらいの静かさの中、目的地である彼のアパートの前にただ降り立つと、始は黙ったままスタスタと部屋へと向かい出した。

 美玖も彼の後に続こうとしたが、どうしても足が次の一歩を踏み出そうとしてくれなかった。


「どうしたの?」


 なかなか後ろをついてこない彼女を案じて、始が戻ってきた。

 自分でもどうして歩き出せないのか分からない。

 ずっと頭から寂しそうに佇んでいた須崎の姿がこびり付いて離れなかった。

 今、自分が向かうべき場所は、このアパートではない。


 彼はきっと、また自分を責めてしまう。

 そうなる前に、自分が彼のそばにいてあげなくては。

 彼女の気持ちは、すでに決まっていた。


「ごめん、私、やっぱり病院に戻る…」

「はっ?いや、あそこにいても俺らに出来ることなんて何もないだろ。ひなのちゃんだってすぐに目を覚ますわけじゃないんだし、とりあえず今日は…」

「そうじゃないの…、そうじゃなくて…」


 彼女が伝えたいことがなんなのか、始も薄々感じ取っているようだったが、それを認めるのが恐ろしく、とても嫌だった彼は、彼女からそれを話させないように矢継ぎ早に言葉を被せてきた。


「あの先生の傍にいたいって言うのかよ。だったら、どうして俺と付き合ったんだよ。この数ヶ月、美玖の傍にいたのは俺だっただろう?全部無駄な時間だったのかよ。俺にとっては一瞬一瞬を大切に、一生懸命過ごしてきたつもりだったんだよ!」


 彼の言葉に何一つ偽りはない。

 始が美玖のためにこれまで尽くしてくれていたことは彼女も知っていた。

 これまで夜間のバイトに入ることが多かったが、美玖と一緒にいる時間を増やすため、大学に入ってから居心地が良くてずっと続けていた映画館のアルバイトを辞め、定時で帰宅することができる派遣の仕事を学校の合間に始めていた。

 そんな彼が何よりも、彼女のために一番犠牲にしたのは自分の夢だった。

 もともと彼は帽子職人になりたいと言う夢を持っていた。

 進んだ学校はそういった専門的な勉強は行えなかったが、いずれ大学を辞めて、再度専門学校に入学し、自分のオリジナルのブランドを立ち上げることが、彼の夢だった。

 もちろん付き合い始めた当初は美玖も応援していたし、彼が試作で作ってくれたバケツハットは今も大切に被っている。

 だが彼は先々のことを考え、不確かな将来性を孕んでいる自分の夢よりも、家庭を支えることができる安定性を選び、家業の酒屋を継ぐということを先日の帰郷の際に家族たちに告げていたのだ。


 そこまで自分のことを考えてくれていた彼の訴えを分かっていながらも、彼がどれだけ自分のことを愛してくれているのかを分かっていながらも、それでも応えることが出来なかった。

 こんな我儘、通用するわけがない。

 そんなことは百も分かっている。

 だけど自分でもどうしようもないぐらい、呆れて何も言えなくなるぐらい、須崎のことを想わずにはいられないのだ。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい…」


 涙を溢しながら謝ってくる彼女に、始は小さくふざけんなよと呟いた。

 下を見ると、自分が告白した時に彼女にプレゼントした赤いパンプスが目に付いた。

 秋頃にあげたものだから、すでに冷え切ったこの季節じゃ、足元は冷たくて仕方ないだろうに、その靴は突き刺さるような空気から彼女の足を守ってはいなかった。


「そんなにあの先生のところ行きたいんだったら、その靴脱いで行けよ」


 頭に血が上ったままとんでもないことを口走ってしまったのを、始は言葉に出してから気づいた。

 だが今更引くに引けるわけもなく、驚いた表情でこちらを見つめる彼女を、ただじっと見つめていた。


「わかった…」


 美玖はゆっくりとパンプスを脱ぐと、キンキンに冷え切ったコンクリートの地面の上に、直接足の裏をつけた。

 ゴツゴツとセメントの中の石が、足裏を突き刺してくるようだったが、寒過ぎる気温が足の感覚をすでに奪っており、足の感覚はほとんど無かった。


 靴を脱いでから美玖は始に背中を向けて、ゆっくりと歩き出した。

 始は残された靴を涙を堪えながら見つめていたが、我慢が限界を越えると、フラフラと歩く彼女の背中を追いかけ、後ろから力強く抱きしめた。


「痛い、新田くん、離して…」


 腕の中で抵抗する彼女にも構わず、彼はさらに強く抱きしめ続けた。


「嫌だ、絶対離したくない…!離れたくない…!」


 身動きが取れない状態であったが、そっと腕に触れ、彼の名前を呼ぶと、少しばかり力が解けて、僅かばかり動ける余裕ができたため、腕の中でゆっくりと振り返り、彼を見上げた。


「新田くんがそう言ってくれるのと同じように、私も須崎先生から離れたくないの。私もおんなじ気持ちなんだよ…」


 彼女の言葉にだんだんと抱き締める腕の力が緩んできたのがわかった。

 彼女の意を理解してくれたのか、それとも単に呆れて何もやる気が出なくなってしまったのか。

 どちらとも取れるような表情を浮かべる彼に再び背を向けて、美玖は街灯がぽつぽつと点々になりながら照らしている夜道を、一人、素足のまま歩き出した。

黒瀬リュウ ( 2021/11/10(水) 01:45 )