06
数日後、週に二回行われていた練習は、急遽休みになってしまった分を取り返すためにも、この週は一日多く練習が行われることになった。
練習前にそれぞれが音出しをしたり、呼吸法の練習をしたり、各々のウォーミングアップを行っている中で、美玖は一人、楽器保管室でアルトサックスの手入れをしていた。
あれから須崎とは視線が交わることは無くなった。彼の家を出る際も、気を付けてとだけ言い渡されて、彼女は一人で始発が出る駅まで歩いて向かった。
彼の中で自分という存在がどんなものなのか。彼は一体、自分に対してどう思ってくれているのか。なぜ、卒業式の日、キスをしてくれたのか。
結局その理由が分からないまま、その答えは永久に深い闇に沈んでいくような気がしていた。
彼女は楽器をケースの上に置くと、カバンの中から手帳を取り出した。
大学に入学したタイミングで新しく新調した革製の手帳の見開きには、一つの封筒が挟まれていた。
そこには淡い色のペンで『須崎先生へ』と記された、彼へのラブレターだった。
初めてきちんと想いを伝えようと思ったあの日、彼からすべてを打ち明けられたあの日に宿題として出された本と一緒に彼に手渡そうと考えていた手紙だった。
二年前に綴じられたその封はそれまでも一度も開けられたことがなかった。
いつもその手紙を眺めては、彼のことを思い出す。
彼と過ごした日々。彼に助けてもらった思い出。すべてが彼女の中で太陽の光が反射する水面のように、キラキラと眩しい物ばかりだった。
「金村さん」
声を掛けられ、ふと顔を上げると、始が顔だけ覗かせてこちらを見ていることに気付いた。
慌てて手帳をカバンにしまい、美玖は笑顔を取り繕った。
「な、なに?」
「こないだ一人でここに来たんだって?」
「あっ…、うん」
「大雨の中、大変だったでしょ」
「うん…、まあね…」
歯切れの悪い答えと違和感しか感じない急な笑顔で、さすがの始も彼女に何か異変があったのを感じ取っていた。
始は少し周りを見渡してから、誰もいないのを確認すると、保管室の中に足を入れ、彼女の隣に腰を下ろした。
「あのさ、今日練習が終わった後ってヒマ?」
「えっ、うん。特に予定はないけど…」
「俺の大学の先輩で演劇サークルやってる人がいるんだけど、その人の舞台公演があってさ。チケットが一枚余ってるんだけど、よかったら一緒に観に行かない?」
突然の誘いに少し驚いたが、特に断る理由も見当たらなかったため、美玖は彼の誘いに首を縦に振った。