08
『前に進めない』。
友人にはそう言われてしまった。
そんなことはずっと分かりきっていたことだった。
酔いつぶれてしまった久美を自宅まで送り届けると綾人がタクシーを拾って乗り込み、カップルを見届けた後、部屋には美玖と始の二人が残された。
とっ散らかってしまった部屋の片付けを手伝うことにし、大皿とビールを注ぐのに使ったグラスなどをキッチンで洗い、始は床に飛び散った食べかすなどを粘着カーペットクリーナーで綺麗にしているところだった。
ある程度綺麗にし終えた始は、彼女の隣に立ち、美玖が洗った食器類をペーパータオルで綺麗に水を拭き取っていた。
「新田君、お皿とか拭くの慣れてるんだね」
「バイトで毎日拭かされてるから。金村さんもそろそろいいよ、後は俺やるし」
「いいよ。もうちょっとだけやっていくから」
「悪いね」
皿を洗いながら、美玖は久美に言われた言葉を思い返していた。
『後悔だらけの日々では、前には進みだせない』
美玖が須崎に対して抱いている感情のことは、学生時代から何となく久美は察していた。
卒業後に彼女とランチに行ったとき、そのことを言い当てられてしまったときは、思わず飲んでいたコーヒーを吹き出してしまいそうになった。
だがそんな友人にも唯一話していない想い出がある。
卒業式の日。すべてが終わった後、美玖は理科準備室のドアをノックした。
部屋の中にはいつもの優しい表情の須崎がいつものデスクに座って待ってくれていた。
「先生」
「ああ、ホームルームは終わったのかい?」
「はい」
理科準備室のすぐそばには大きな桜の気が聳え立っており、風に吹かれて窓から桜の花びらがひらひらと数枚舞い込んできていた。
その中の一枚がボサボサ頭の須崎の髪の上に止まった。
美玖は笑いながらその花びらを取ろうと、彼の頭に手を伸ばした時、伸ばした腕を突然須崎に掴まれた。
どうしたのかと彼の目を見たとき、その顔はゆっくりと近づいてきて、次の瞬間には彼女の唇には柔らかい感触が伝わっていた。
触れていたのはほんの数秒だったのだろうか。だが美玖にとっては一瞬にも、永遠にも感じられた。
突然のキスに言葉も出ずに驚いていると、須崎はあの時すべてを打ち明けてくれた時と同じような憂いの表情を浮かべて、すまないと一言残し、彼女の横を通り過ぎて行ってしまった。
自分に対する謝罪なのか、それとも自殺をしようとしていた自分を自身の妻と重ね合わせての謝罪だったのか。どちらなのかはわからない。
ただそれが美玖にとっての初めてのキスであったのは、紛れもない事実であった。