手紙 - 第一章「あの日」
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 その日、鳴海は珍しく仕事をしていた。と言っても本職の小説家ではなく、週に何度か行なっている高校生相手の塾の小論文講師の仕事だった。

 今回は『将来、子供に勧めたい本』というテーマを基に彼らには課題に取り組んでもらっている。ペンを走らせる音が鳴り響く教室内をゆっくりと回っていると、一人の女子生徒が手を挙げた。


「どうしたの、向井地さん」

「先生、少し確認して欲しいんですけど…」


 大学受験を半年後に控えた彼らは、真剣に自分の授業に取り組んでくれている。その事に鳴海は嬉しく思いつつあった。

 仕事を終え、ビルの外に出ると、スーツを着た一人の女性が外に立っていた。彼女はこちらに気付くと、ゆっくりと頭を下げた。久しぶりに見た顔だったため、立ち話もなんだからと、近くのファミレスに入り、お互いコーヒーを注文した。


「お久しぶりです。"先生"」

「塾講師の仕事後にそれを言われると、なんだかどっちのことを言われてるか分からなくなってしまうな」


 彼女は大手出版社の松英社に勤める松井珠理奈という女性で、鳴海の処女作の『初恋』という本を出版する際に担当を務めてくれた人物であった。

 久しぶりの再会による気まずさを解消すべく、鳴海は彼女の言葉を軽く笑ったが、相手の表情は依然として曇ったままだった。


「今日は、少し残念なお知らせを…」

「君の表情から察するに、少しどころじゃないんだろう?」

「もし、先生の新作がこれ以上出ないのであれば、今月いっぱいでコラムの連載も打ち切りだと部長に言われまして…」


 鳴海が出した『初恋』は50万部を超えたベストセラー小説となり、新作が大変期待されていたが、その期待が重圧となり、ペンを走らせることが出来なくなっていた。

 唯一、松英社から出されている雑誌のコラムを書くことが、最近の物書きとしての仕事だった。


「そうか。まあいつまでも新作を書かない小説家なんて、誰も興味ないよな」

「そんなことありません…!私は先生の文章が大好きです…!」


 彼の自虐的な発言に松井が遮るように答えた。


「私は先生の作品と出会えて本当に良かったと思っています。だからこそ、先生にはこれからも本を書き続けて欲しいんです…。私も全力でサポートします。ですから…」


 ほぼ涙目で訴えてくる彼女の言葉に、彼は申し訳なく思いながら答えた。


「すまない。そこまでいってくれるのは嬉しいけど、どうしても書けないんだ…」


 鳴海の言葉に松井は寂しそうに小さく頭を下げた。

黒瀬リュウ ( 2020/03/25(水) 15:44 )