10
麻衣を連れ、栄介はNEW SHIPへとやってきた。
閉店直後であったが、マスターに無理を言って、中に入れてもらった。しかも珈琲を2杯も奢ってもらえた。
「帰るとき声かけて」
「ありがとうございます」
先に座って煙草を吸っていた彼女の前に、そっとカップを置き、向かい側の席に座った。
初めて会ったときは煙草の煙すら嫌がっていた彼女だったが、しばらく会わない間に煙草が似合う女性になっていた。
「あなたの作品、全部読んでるわ」
吸い殻を灰皿に擦り付けながら、麻衣は口を開いた。
「お世辞はいいさ。僕の漫画を載せるとこなんて、そうはないだろう?」
「家の近くに貸本屋があるのよ。そこでよく読んでる」
「そっか。ありがとう」
最近はあまり作品が捗らず、モヤモヤする日々であったが、彼女の言葉を聞いて、少し嬉しく思えた。
「君はまだ描いてるの?」
「ううん、全然」
「結婚、したから?」
彼女の左手の薬指に着いている指輪を見ながら尋ねた。つい最近、麻衣が結婚したと言う話は風の噂で聞いたことがあった。
だが彼女は彼の問いに首を横に振った。
「違うわ、才能よ」
麻衣は一口、珈琲を啜ると懐かしそうな顔をしながら口を開いた。
「鮫島先生には会ってる?」
「全然。金借りっぱなしで行ってない」
「ふふ、あそこであなたとアシスタントをしているときが一番楽しかったわ」
彼女のその一言に栄介は思わず、ふっと笑った。
「だって、悪いこと全部あそこで仕込まれたもんね」
「うふふ、そうね」
「酒に煙草にギャンブルに、それから…」
その先を言おうとして彼は言葉を詰まらせた。麻衣を目の前に、その事に触れていいのか悩んだからだ。
だが彼女はあの頃を懐かしむように口を開いた。
「初めて同士だったのよね、お互い」
「後悔してる?あのとき体を重ねたときのこと」
「ううん、だってあなたを愛してたから」
麻衣がじいっとこちらを見つめていることに気が付いた。だがどう返しをしたらいいのかわからず、ただただ見つめ返すことしかできなかった。
すると突然、外から彼を呼ぶ声が聞こえた。
酒を買いに家を出たのに、なかなか帰って来ない栄介を探す章一たちの声だった。栄介は慌てて身を隠した。
「おった?」
「こっちにもいないです…」
「シップ(NEW SHIP)は閉まっとるしな…」
「酒代持って逃げるわけないですもんね…」
「間違えて不審尋問で警察に連れていかれはったんちゃうか…!」
ゆっくりと三人の声が離れていくのがわかった。彼らには申し訳ないことをしていると自分でもわかっていた。
「お友達?」
「まさか。ただの同居人だよ」
「そう。昔だったら、これからジュク(新宿)にでも繰り出すところだけど…?」
「 『人は知らじな火を噴きし山のあととも』か…」
「えっ」と麻衣が聞き返したが、栄介は答えることなく起き上がり、彼女を駅まで送ることにした。