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数日後、阿佐ヶ谷の住宅街にある小さなアパート。そこの二〇六号室が栄介の自宅だった。およそ五畳ほどの小さな部屋の中には、特に大きな家具はなく、あるとすれば窓側に置かれてある漫画を描くときに使う机だけだった。
「東京五輪も終わって、日本はアジアの第一等国に躍り出たわけ。これからの漫画に求められるのは、大人向けの作品!スリルやスピード感溢れるものに、セクシーといったスリーSが極めて重要となってくるの。いつまでも児童漫画にこだわるような叙情作家気取りでいるんじゃないっつうの」
あのあと深瀬に言われた一言が、頭の中で何度も繰り返されていた。確かに自分がやりたいことが世の中に即していないことはわかっている。金を稼ぐためにも、自分のやりたいことは諦めなくてはならない。
だがそれがどうしても腑に落ちなかった。自分の信念まで曲げてまで行った仕事に果たして誇りが持てるのか。栄介はポケットの中に入っていた小銭を机の上に広げた。
五百三十円。それが彼が今、手元にあるお金であった。煙草を吸いたい気分であったが、あいにく新品を買っている余裕はない。仕方なしに、灰皿の上に山積みになった煙草の山から、まだ吸えそうなものを漁るように探した。
外は雨が降っていた。アパートの隣にある大家が営んでいる煙草屋から、のど自慢大会のラジオ放送が若干耳に入ってきた。
それ以外に彼の耳に入ってきたのは、ドアのノック音であった。彼は煙草を探しながら、どうぞと一言言った。しかし誰も入ってこなかったため、自ら立ち上がり、ドアを開けた。すると目の前には身長の小さな女性が立っていた。
「あっ、今日から隣に越してきました。向井地美音といいます」
「これはご丁寧に。学生さん?」
「はい。よろしくお願いします」
しっかりと頭を下げると、彼女は何事もなかったかのように隣の部屋へと帰って行った。
ドアを閉め、ようやく吸えそうな煙草を見つけ、それを銜えたとき、再びドアのノック音がした。また先ほどの女子大生かと思い、今度はドアを開けることなく、再びどうぞとだけ言った。すると今度はドアが開き、中に人が入ってきた。
ふと栄介が振り向いて、その姿を確認すると見覚えのある顔で、目を開かせた。
「よお・・・!何してんの・・・?」
入ってきたのは外の雨でずぶぬれに濡れた横山由依であった。彼女とは二か月前の一件以来全く会っていない。それどころか連絡すらも取っていなかったのだが、彼女がなぜここまでやってきたのか理解できずにいた。
しかし彼女は着いたとボソッとつぶやくと、手に持った大荷物を床の上に置き、そのまま座り込んでしまった。
「一体どうしたんだい。そんな引っ越しみたいな大荷物もって」
栄介がそう尋ねると、由依は苦笑いをただ浮かべるだけで返事はしなかった。だがその表情だけで、栄介は一瞬であることを察した。だがそれは嘘であると信じたかった。
すると今度は外から彼を呼ぶ声がした。窓の外から顔を出すと、声の主は隣の煙草屋にいる大家のフネであった。
「村岡さん、お電話ですよ。警察から」
「警察!?」
まさかの言葉に、栄介は思わず高い声で返事をしてしまった。