乃木坂抗争 ― 辱しめられた女たちの記録 ―




























































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★第三部と第四部の間の短篇集★
生田絵梨花のその後… (プロローグ)
 都内某所。
 駅から徒歩数分のところに最近できた真新しい建物の心療内科クリニック。
 メンタルケアを主に「心に深い傷を負った患者に寄り添い、更正を後押しすること」を理念に掲げるこのクリニックを、この日、一人の女性客が訪ねた━。

 彼女の名は生田絵梨花。
 現在は国際犯罪対策課のドイツ支部に籍を置く彼女だが、かつての盟友、桜井玲香の窮状を知り、いてもたってもいられず帰国したはいいものの、一枚上手の敵の罠にまんまと嵌まり、後輩の久保史緒里とともに捕らわれ、凌辱される羽目になってしまった。
 だが、彼女の抱え込む悩みはそれではない。…いや、根本はそれだが、自分が犯されたことより、はるばるドイツから帰国して早々、捕らわれ、玲香を誘い出す手段にされたことの方が、彼女にとって、精神的ダメージが大きかった。
(助けに来たつもりが、とんだお荷物に━)
 その後、玲香は完敗を喫して死に等しいほどの地獄を味わい、それによって戦局も大きく変わった。
(玲香がやられたのは私のせいだ…私が不甲斐ないばっかりに…!)
 その思いが今も心を締めつけ、暗いトンネルから出ようとする足を止める。
 そして、もう一つ。
 それは、玲香だけでなく、後輩の久保をも救えなかったことだ。
 卑劣な男たちは、生田の帰国を先読みし、彼女が寵愛している久保を人質にとった。
 彼女を救うため、明らかに不利なゲームに罠と知りつつ果敢に挑んだ生田だったが、結果は、あと一歩のところで敗北。
 それが決め手となり、敗者の生田、そして人質の久保の二人は、悪魔の慰み物にされてしまった。
(自分のことはいい…!)
 自ら受けたゲームで負けたのだから仕方がない。
 だが、せめて自分を慕う久保だけは守りたかった。
 そして、そのためには、あの時、あのゲームで絶対に負けるワケにはいかなかったのだ。
(でも、私は負けた…。私のせいで、玲香も、史緒里も…。私のせい…全部、私のせい…)

 このように、あの悪夢の一日を境に、ネガティブになり、精神が病んでしまった生田。
 その状態を不安視した秋元真夏は心療内科への通院を勧めた。
 そして足を運んだのが、ここ、「中元ひめクリニック」。
 一口に心療内科といっても都内に沢山あり、何処が良くて何処が悪いか、その良し悪しは素人には判断が難しい中、生田がこのクリニックを選んだのは、親友からのクチコミだった。
 その親友の名は斎藤ちはる。
 高校の同級生で、現在はテレビ関係の仕事をしている。
 テレビ業界というのは、こちらからは華々しく見える一方、裏では寝る間もないほどの激務だったり、実はドロドロとした人間関係があったりで精神的に参ってしまうことが多いらしく、おのずと、心療内科やメンタルケアに足を運ぶ機会が出来てくるという。
 そんな彼女に、都内でオススメのところをないかと聞いたところ、挙げられたのが、この「中元ひめクリニック」だった。

「私もよく行くところで、悩み事が出来た時、ここに行くと、帰りにはキレイさっぱり忘れてるの。若い女の先生なんだけど、聞き上手で、すごくいい先生よ」

 と、ちはるは言う。
 そんなちはるが絶賛する院長の名は中元日芽香。
 以前からヒプノセラピー(催眠療法)に強い関心を持ち、半年ほど前、これまで勤めた大学病院から独立し、自身の名を冠したクリニックを開業。
 いわば新進気鋭といえる女医で、実際、「ここでカウンセリングを受けて不登校を脱した」とか「生きる希望が湧いた」、「もう一度、人生をやり直す気になった」など、通院した患者からの評判も上々だ。
(物は試し…ちはるを信じて、一度、行ってみよう)
 と思って訪ねた生田。
 その一方、生田の知らないところで、この「中元ひめクリニック」にまつわる妙な噂も囁かれていた。
 それは、

「若い女性だけ、やけに通院期間が長引く」

 というものだ。
 真偽は不明だが、本当なら確かに妙な話である━。

 ……

「生田さーん。生田絵梨花さーん」
 と甘い声で名前を呼ばれ、立ち上がる生田。
 診察室に入ると、ちはるの言っていた通り、中元という女医は、若い人だった。
 頬にエクボが出来る優しい笑顔で、
「生田絵梨花さん…初めての方ですね?」
「はい…」
「お悩みは何ですか?」
「実は━」
 事が事だけに、なるたけ隠せるところは隠し、表現もソフトな言い回しに変えたりしながら、悩みを打ち明ける生田。
 それを中元女医は、ずっと目を切らず、親身に聞いてくれた。
 そして、悩みを聞き終えた中元女医は、
「なるほど〜…それは確かに辛い出来事ですね」
 と共感したように言い、生田の目を見て、
「忘れたいですか?」
「はい、忘れたいです」
 真剣な眼差しで訴える生田。
「分かりました。では、早速、始めましょう」
(え…い、いきなり…?)
 展開の早さに戸惑いつつ、信頼して身を任せる生田。
「まず、私の手を見てください」
 と言って、手をかざす中元女医。
「これから催眠療法で、あなたの嫌な記憶を徐々に薄めていきます」
「う、薄める…?」
「えぇ。というのも、一思いに消してしまうと、それは記憶喪失と一緒なんです。今すぐ忘れたいことだからそれでも構わないと思われるかもしれませんが、そうすると、その前後の記憶も一緒に消えてしまう恐れがあります。ですから、その忘れたいことだけに焦点を当て、少しずつ薄め、克服できるようにしていきます」
「な、なるほど…」
 催眠療法の知識などまるでない生田だが、言わんとすることは分かる気がする。
「さぁ、身体を楽にして…私の手を見て…」
 と声をかける中元女医。
 言われた通り、目の前にかざされた手の平を凝視する生田。
 中元女医は、
「私が今から3つ数えると、生田さんは身体の力が抜け、朦朧として眠ってしまう…」
「━━━」
「行きますよ〜?…ひとつ…ふたつ…みっつ…!」
 3カウントを数え、その手の平が振り下ろされると、スッと首が垂れ、力が抜けた生田の身体は、だらんと前のめりに傾いた。
 中元女医に支えられ、そのまま力なく椅子の背もたれに全体重を預けて眠りにつく生田。
 いわば、これが催眠療法のニュートラルの状態である。
 そして、ここから暗示で生田に刻まれた忌まわしい記憶を緩和し、克服させてゆく。…と言ってた筈なのに、なぜか、しばらく昏睡状態の生田の寝顔を黙って眺めている中元女医。
 見ているうちに、その優しい笑顔が、次第に不敵な笑顔に変わっていく。
(また一人、私好みの可愛い娘が来てくれた…!)
 問診の時とは一転、妖しく目を光らせた中元女医は、眠る生田を残し、一旦、診察室を出て、玄関へ向かった。
 入口のドアをそっと開けて顔を覗かせ、前の道の人通りが途切れた隙に素早く玄関のドアのノブにかけた札を裏返し、

<本日の受付は終了しました>

 と書かれた面を表にした。
 そして、すぐにドアを閉めると内側から鍵をかけ、さらに、まだ生田が中にいるにもかかわらず、遮光カーテンまで下ろしてしまった。
 誰にも邪魔されない密室の完成━。
(これで二人っきり…!)
 再び不敵な笑みを浮かべる中元女医。
 昏睡状態の生田は、彼女の合図がないかぎり、目覚めることはない。
 それをいいことに、中元女医は、着々と“準備”を始めた…。

鰹のたたき(塩) ( 2020/08/31(月) 13:35 )