「ジグソーパズル」
第一章
01
冷たい風が吹き、雪が舞う季節

俺は消毒液の匂いと電子音が虚しく鳴り響く部屋に一人でいた。
理由は単純。
5日前に事故に遭ったからだ。
正確には事故にあった“らしい”。
なぜ、“らしい”という表現を使うのかというと
これもまた単純で、事故の記憶が一切ないのだ。
先生の話では大きな事故に遭うとたまに記憶を無くす人もいるらしいとのことだった。
後から聞いた話では、交差点で信号待ちをしている俺を目掛けて酔っ払いの車が突っ込んできたみたいだ。
それは、それは悲惨な事故だった“らしい”。

事故から一週間後にリハビリが始まった。
さらに一週間後、事故だけでなく、自分に関する記憶も曖昧になっていることに気づいた。

幸いにも家族に関する記憶は覚えていた。
しかし、家族から名前を言われてもいまいちピンとこなかった。
家族の話によると、俺はこの間20歳を迎え、家から徒歩30分ほどにある大学に通う大学2年生で実家暮らしとのことだった。
まるで他人の話を聞いているみたいだった。

そして、自分の趣味や好きな食べ物、好きなことなどについては、何度も思い出そうとしたが思い出せなかった。
ジグソーパズルのピースが抜け落ちたみたいに思い出せなかった。

思い出せないというより、空っぽのコップのように最初から無かったみたいだ。
事故に遭ったというのも、この体の在りようから信じられるわけで、この体の痛みが無かったら到底自分がそんな事故に巻き込まれたなど信じられない。
それぐらい事故に関する記憶はない。
あの日俺は、なぜ交差点にいたのだろうか。
どこへ行くつもりだったのだろうか。
誰かと待ち合わせでもしていたのだろうか。
なにも思い出せない。

二ヶ月後、俺は退院した。

退院する際に先生にこんなことを言われた。
「記憶は医学でもまだまだ解明できていない分野で、ふとした時に思い出す人もいれば、思い出さないままという人もいます。なぜこんな話をするのかというと、希望を捨てないで日々を生きてください。記憶がないままでは辛いこともあるかもしれませんが、希望を捨てずに生きてください。先ほども言いましたが、記憶は医学でもまだまだ解明が進んでいない分野です。だから、私はどんな奇跡でも起きると信じています。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「あと、記憶を無理に思い出さそうとするのは、おすすめできません。」
「なぜですか?」
「それは無理に思い出そうとすると脳や神経に影響が出るからです。それに記憶を無くし、無理に思い出そうとして、心を病んでしまった方を私は何人も知っています。なので、無理に思い出そうとせず、難しいと思いますが今の自分を好きになってください。それが一番効く治療だと私は思っています。」
「努力してみます。お世話になりました。」

退院の手続きが終わり、親の運転で自宅に帰ることになった。車の事故ということもあり、電車で帰るか?やバスと歩きで帰るか?などいろいろ気を遣ってくれた。しかし、事故の記憶が一切ないので、大丈夫と言い、後部座席に乗り込んだ。なぜ後部座席に乗り込んだかはわからない。

約二ヶ月ぶりに我が家に帰ってきた。
二ヶ月ぶりの我が家は、微かに記憶に残るそれと変わっておらず懐かしい気持ちになった。自室に向かおうと思いドアを開けようとしたら、ドアノブを掴んでいた右手が少し震えているのに気がついた。
俺はビビっていた。
このドアを開けたら20年住んでいた俺の部屋がある。
少なからずそこには、自分の価値観や好きな物もあるだろう。
それを知ることが、知らされることが怖かった。
それを知った今の自分がどうなってしまうのかが怖かった。
目が覚めて二カ月の俺が、20年間の俺を受け止めることができるのだろうか。
ただ、知りたいという好奇心があるのも確かだった。
過去の俺がどんなものが好きでどんな服を着るのかどんな生活をしているのか知りたくてしょうがなかった。

結局好奇心が勝ち、覚悟を決めドアを開けた。

目に飛び込んできたのは、なにも無い部屋だった。
価値観や好きのものは愚か、テーブル、ベッド、クローゼットしかなかった。クローゼットの中は必要最低限の洋服だけだった。

(おかしい、さすがに生活感が無さすぎる)

そう思っていると、ドアの前を母親が通りかかった。
話を聞いてみると事故の2週間ぐらい前に俺、自らが部屋の物を全て捨ててしまったらしい。何度、家族がやめろと言っても捨てるの一点張りでそのまま捨ててしまったみたいだ。
理由を聞いてもなにも教えてくれなかったらしい。

(なぜ、俺は全て捨ててしまったのだろうか)
(しかも、家族にも理由を話していないのはなぜなんだろうか)
(俺は何を考えてこんな部屋にしたのだろうか)
この部屋に入れば少しでも記憶が戻るのではないかと期待していたが、この部屋も過去の俺の行動もなにもわからない。それどころか、過去の俺に対する不信感を抱いただけであった。

俺の記憶のジグソーパズルはまだまだ“空白”だらけだった。

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ぱんけーき ( 2021/02/09(火) 20:20 )