40
その日の帰り際、七瀬は見知らぬ男の人と歩いている佑美の姿を見かけた。佑美はその人と腕を組んで、楽しそうにおしゃべりをしていた。
慶治が学校を辞めたという話は少し前まで何度か耳にしていた。あることないこと誇張された噂は慶治のことを良くは言っていないものが多かった。
七瀬はすっと二人から視線を外し、大学の門から外へ出た。ふと冷たいものを感じ見上げると、重苦しく曇った空から、白いものがはらはらと落ちてきた。
ほのかな雪が七瀬の上から舞い落ちる。東京で見る初雪だった。
「寒い・・・」
マフラーを首に巻きつけ、白い息を吐きながら足早に歩く。たった一人で昇る坂道。いつもと同じはずなのに、七瀬には今日は足が重く感じた。
やがて、坂道の途中で七瀬は立ち止まった。音もなく舞い落ちる雪の中、少し先に立っている慶治の姿が見えたからだ。
「お帰り」
「た、ただいま」
慶治はコートのポケットに手をつっこみ寒そうに息を吐いている。
「どうしたん? こんなとこで」
「迎えに来たんだよ」
「え?」
七瀬は慶治の言葉の意味がわからなくて立ち尽くした。
「絵画教室は?」
歩き出した慶治の背中に七瀬が問いかけた。
「今日は休み」
今まで教室を閉めていたというのに、どこから聞きつけたのか、政江の教室にはすぐにたくさんの子どもたちが集まってきた。
政江に絵の楽しさを教わった子どもたちが大人になり、今度はその子どもたちを彼女の教室に通わせたいと願っていたからだという。
「よ、よっぽどヒマなんやね。私を迎えに来るなんて」
「まぁ、ヒマだな。それに・・・」
慶治は少し笑い、足を止め空を見上げた。
「初雪。七瀬と一緒に見たかったしな」
(・・・なんでこの人はこんなこと言うんやろ。なんで、哀しくなること言うんやろ)
七瀬は肩にかけたバッグのベルトをぎゅっと握った。中に入っている春色の封筒。これを見せたら、慶治はどんな顔をするのか。
東京に降る雪は淡く儚い。きっとすぐに止んでしまう。だけど、今だけ、今だけはこの白い景色の中にいたい。あと少しだけ、この封筒を閉じ込めておきたい。七瀬はそう願わずにはいられなかった。
慶治は再びゆっくりと歩き出す。七瀬も隣に並び、何も言わずに歩く。
手と手が触れ合いそうで触れ合わない距離。もう、その手を握ったりはしない。
坂道を歩きながら、七瀬はそっと隣にいる慶治を見た。
前だけを見つめる慶治の肩に白い雪が舞って溶ける。
(あ、そうか・・・)
音のない世界で気付いてしまった。
(なな、この人のことが、好きなんや)